• 思いがけず聖霊の風の恵みを受けたカトリック信徒が、聖霊刷新とは何か、Jacky のニックネームで具体的に説明するサイトです。テーマは、預言的執り成し、預言、いやし、悪霊からの解放、イスラエル、アメリカ、メシアニックジュー、エキュメニズム、マリア崇敬、聖マリアの汚れなき御心の勝利、第二の聖霊降臨など多岐にわたります。聖霊刷新関連の本もたくさん紹介しています。

サイトの名の由来(証し)

幼児洗礼

私はカトリック教会で幼児洗礼を受け、日曜学校で基本的な教えを受けたが、イエス・キリストの十字架の死と復活による救いを全く理解していなかった。教会で神父に罪を告白すれば赦されると信じていたが、その根拠を知らなかったのである。子供心に、2千年前、イエス・キリストが十字架から降りて来ていれば、超かっこよかったろうし、それを見た人は皆、イエス・キリストを信じたろうになどど思っていた。

聖書

大学生のとき、カナダの大学に1年間留学した。キャンパス内の学生寮に入ったのだが、ある土曜日、エディとジェームスという二人のクリスチャン(プロテスタント)が私の部屋を突然、訪れ、私の部屋で週に一度、一緒に聖書を勉強する時間を持つことを提案してきた。私は教会の「ミサと典礼」で聖書の御言葉を読むことはあっても、聖書を開いて御言葉を読む習慣が全くなかったので、英語で聖書を勉強しても悪くはないという気持ちがあった。唐突な提案なので、多少の抵抗はあったものの、その提案を受け入れることにした。

救い

毎週土曜日にヨハネの福音書を1章ずつ読んでいったが、数ヶ月経ったある日、私は、エディとジェームスに「どんな罪でも赦されるのですか。赦されない罪はないのですか」と質問したら、エディは、ヨハネの第一の手紙の第1章9節「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます」を示してくれた。さらにローマの信徒への手紙の10章9節「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」を示してくれた。そして二人は私のために祈ってくれた。この日、私はもしかしたら自分は救われないかもしれないという恐れから解放され自由になった。

神の臨在

留学を終えて日本に帰国した私は、東京のミッション系(プロテスタント)の中学高等学校に英語教師として赴任した。ある日、クリスチャンの同僚から、週に一度、昼休みに有志で小さな祈りの会を開催しているので参加しませんかと誘われた。その会に初めて参加したところ、最後に少人数に分かれて祈り合うことになったので、私は音楽のN先生(女性)と二人だけで祈り合った。N先生が祈り始めた途端、私は神の臨在を感じた。そしてその臨在感はN先生が祈り終わると同時に消えた。

私は救いの恵みを受けたこと(イエス・キリストの死と復活による救いの真理を知ったこと)に満足していた。死んで天国に行くまでは神に出会うことはないだろうし、そもそもそれが本当の信仰というものだろうと思っていたが、この体験は私に大きな衝撃を与えた。この世に生きている間に神の臨在を体験することができるなんて、両親も神父もシスターも誰も教えてくれていなかったのだから。

とは言え、この時の体験で、私はN先生を内心、敬うようになった。祈れば神の臨在をもたらしてくれるほどの信仰を持つ先生として。でも、この体験は一度限りのもので終わってしまった。同じことは二度と起こらなかったのである。

そのN先生から不思議な話を聞いた。東京のカトリック初台教会で不思議な祈りの集いが行われているというのである。異言での賛美があるとか、静まり返ったと思ったら一斉に賛美が始まるとか、とにかく不思議な集いなのだそうだ。プロテスタントの信徒も参加しているエキュメニカルな集いでもあるということだった。N先生の勧めもあり、いつの日にか、初台教会で行われているその集会を見に行こうと思った。

聖霊の風

やっと決心がつき、初台教会を訪問したところ、祈りの集いは四谷の上智大学に移ったと知らされ、がっかりした。その後、気を取り直し、しばらく経ってから四谷の祈りの集いを訪れた。N先生からすでに不思議な祈りの集いについて話を聞いていたためか、四谷の祈りの集いにはそれほど違和感を覚えなかった。祈りと賛美が終盤に近づくと、ある人が「預言」というものを始めた。生まれて初めて聞く長い預言だった。

それと同時に、突然、さわやかな風が吹いて来た。その人が預言をしている間、私はずっとおでこだけに風が吹いて来るのを感じたのである。それは風というよりも、むしろ、押し寄せる波のようであった。念のため、会場の周囲の窓を確認すると全て閉まっていた。だから断じて自然の風ではなかった。それは、私のおでこを愛撫する超自然的な風であった。

私が驚いたのはその風だけではなかった。その時の預言は、「私はあなたが来るのをずっと待っていました。親鳥がその翼で雛鳥を守るように私はあなたをずっと守って来ました。今日は本当によく来てくれました」という趣旨のものであった。明らかにその預言は、新参者の私に向けられたものだった。私のような青年が一人、祈りの集いに参加したぐらいで神に感謝されるなんて想像すらしていなかったし、神が私のことを昔から個人的によく知っておられることが分かり、私は非常に驚き感激した。

結局、この時に体験した「聖霊の風」がこのサイトのタイトルになった。

その後、四谷の祈りの集いに続けて参加するようになったが、同じ風は二度と吹いてこなかった(あっ、あの時の風かもしれないと思った時は、決まって窓が開いていて自然のそよ風が入って来ていた)。こういう恵みは一生に一度限りのものなのだ。

「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネによる福音書3・5〜8)。