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三者に関わる赦し

久しぶりに、マーリン・キャロザース牧師の世界的ベストセラーの一つ『この世に天国を』(Bringing Heaven into Hell) から一つの章を選んでご紹介します。

第3章 三者に関わる赦し

 スティ-ブは車同士の事故で父親を失いました。目撃した警官によれば相手の車に完全に非があるとのことでしたが、その相手はかすり傷一つ負わずにすみました。怒りと悲しみがスティ-ブの心に深く根を下ろしました。

 1年後、スティ-ブはクリスチャンになりましたが、永続的な平安を見出すことはできませんでした。父親を失った悲しみと、父親を奪った男に対する苦々しい思いが日夜、スティ-ブの心をむしばんでいました。神にそれを取り去るよう頼むのですが、少しも改善されず、むしろ悪くなったのではないかと思えるくらいでした。

 スティ-ブは、『獄中からの讃美』という私の本をもらいました。彼は、父親の命を奪った事故のゆえに、ためらいながらも神に賛美してみました。すると、自分の悲しみと憎しみは、相手の男を赦そうとしない心に根ざしているのだということが突如として見えてきました。自分の罪に目が開かれると、スティ-ブは自分の抱いていた憎しみに対する赦しと、相手を赦す力を願い求めました。彼は私への手紙に書きました。「何ヵ月か経ちましたが、相手の男を愛し始めています。神はその男を愛していますから、私もそうすべきです。何とすばらしい平安を私は見出したことでしょう」と。

 賛美が、スティ-ブに赦す心を起こさせる糸口になりました。しかし、もしスティ-ブが赦すことを拒んでいたら、彼の賛美は形式的なものに終わり、実を結ばなかったことでしょう。赦さない心は賛美をする心になり得ません。赦しは、私たちと神との関係だけではなく、他者との関係を開くカギともなります。実際、神は、ご自分と私たちとの関係と、私たちと他者との関係を互いに依存関係にあるものとされました。赦しは、3者に関わる事柄なのです。

 イエスは言われました。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(マタイ6:14、15)。

 神に罪を告白すると、神は直ちに私たちを赦してくださいます。それは神のご性質です。しかし、私たちが赦そうとしないなら、私たちは苦しむことになります。赦そうとしない心は、私たちから平安、喜び、そして健康を奪い取ります。神はそういう者として私たちをお造りになったのです。それは神から与えられた人間の性質であり、私たちにそれを変えることはできません。

 一人の若い女性が、結婚生活を破綻させかねない問題を抱えて、私のところにやって来ました。彼女は夫の誘いに応じることがほとんど不可能な状態でした。夫にさわられると、むしろ嫌悪と恐れを感じるのでした。彼女は夫を愛していましたので、自分の振る舞いを理解することができませんでした。どんなに頑張ってみても、そんな自分を変えることはできませんでした。

 彼女の話を聞いているうちに、彼女があまりにも不幸な子供時代を過ごしたことが見えてきました。父親は彼女を虐待し、何度もぶちました。ベッドの下に隠れようとしたときなどは、髪の毛をつかんで引っ張り出し、さらにぶちました。恐れと苦々しい思いが何年間も彼女の心をむしばみました。夫を含め、すべての男性に嫌悪を感じるようになってしまったのです。その上、自分の父親を憎むことで罪悪感も持っていました。もっとも、彼女は憎しみも罪悪感も抑圧していたので、昔のことはもうめったに考えてもみませんでした。

 その若い女性は、赦そうとしなかった自分の態度を神に赦していただくことができ、そして神が彼女の父親をも赦されたことを理解することができました。彼女が父親を赦すことができたとき、彼女の夫に対する恐れと嫌悪感は消え、夫の愛に応えることが自由にできるようになりました。

 現在の家族の問題の根源が、子供時代のつらい体験に由来していることがしばしばあります。両親、姉妹、兄弟との難しい関係が今の私たちを束縛しているということもあります。古い傷は私たちの行動を支配し、それがいやされるまで、私たちは最も愛したいと望む人々を傷つけ続けるのです。

 ある男性は、疑いと嫉妬のせいで危うく妻を追い出すところだったという話をしてくれました。子供の頃、彼は母親のふしだらなところが大嫌いで恥ずかしくてたまりませんでした。そんな母親を彼は決して赦すことができませんでした。母親を赦そうとしない心があったため、妻の不倫を発見しようと彼は妻の挙動をつぶさに観察していたのでした。母親を赦すことができるようになるやいなや、妻に対する疑いはうすらいでいきました。

 知らず知らずのうちに、私たちは過去の感情を私たちの今の関係に重ね合わせることがあります。そんなハンデがあるのでは、私たちの多くが困難を抱えていても別に驚くほどのことではないでしょう。

 私たちだけが過去の未解決の事柄に束縛されているだけでなく、私たちの回りの人間も同じです。私たちの振る舞いが彼らの古傷に触れるために、彼らが私たちに過剰に反応することもあるのです。私たちは神にたずねる必要があります。「主よ、私にはまだ赦していないことがあるでしょうか。私を病ませたり、暗くしたり、私の家族を傷つけたりするようなものはないでしょうか」と。

 私たち人間は、赦せないと思える状況に遭遇することがありますが、その見方は間違っているとはっきり言えます。過去の記憶を抑圧したり、古傷を隠し続けたりする必要はありません。なぜなら聖書は、「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(ヨハネ8:36)と宣言しているからです。私たちがこれまでにしたすべてのことや、しようとしたことに対する赦しを保証するために、そして誰でも他の人が私たちにしたことやしようとしたことを私たちが赦すことを可能にするために、イエスは来られたのです。私たちが赦され赦すとき、私たちの罪も他人の罪も私たちを縛る力を失ってしまいます。

 他人を赦そうとしない理由というのは案外多く考えつくことができるものです。「私を苦しめている人々は、赦してあげられるような人間ではないのにどうして赦すことができるというのですか」。確かにそうかもしれません。彼らは赦しに価しません。しかし、私たちも赦しに価するわけではないのです。それでも神は私たちを赦してくださるではありませんか。

 「だれに対しても悪に悪を返さず、・・・。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ロ-マ12:17、21)とパウロは書いています。いつまでも赦さないでおくことは、いわば悪に悪を返すことであり、私たちの態度は悪に負けた状態です。悪に勝つ唯一の方法は赦すことです。神はそれをとおして私たちの中の悪に勝たれます。赦しなさい。そうすれば神は、私たちを赦すことによって私たちの中の悪に勝つことがおできになります。私たちを苦しめる人々を私たちが赦し、愛するとき、悪は私たちに対する力を失ってしまうのです。

 彼らがあなたを殴ったり、肉体的苦痛を与えたりしたら、肉体は傷つくでしょう(イエスさまは、私たちが決して肉体的に苦しまないとは約束されませんでした)。しかしそれは心の平安と喜びまでめちゃめちゃにすることはできません。実際のところ、悪に本当の赦しと愛をもって対するならば、非常な喜びを体験することを私は保証します。

 「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。・・・」(ルカ6:22、23)。あなたを苦しめる人々を赦したとき、あなたは本当に喜び踊ることができます。

 イエスは言われました。「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:27、28)。

 敵を愛するためには、まず彼らを赦さなくてはなりません。それが難しければ、こういう風に考えてみてください。神は最悪の犯罪人さえお赦しになります。罪悪感がひどければひどいほど、神の赦しを有り難いと思うはずです。もし誰かが私を傷つけたら、そしてその傷がひどければひどいほど、その人はなおさら赦される必要があります。そして私がキリストに似た者となる機会とその人を赦す機会がなおさらのこと増大するのです。

 キリスト者の愛を実行するそんな機会をあなたは望まないかもしれませんが、ちょっと考えてみてください。誰かがあなたを傷つけない限り、あなたが赦す喜びを知ることは決してないのです。

 時として私たちは次のように言ってこの問題を避けることがあります。「そうですね。もしその人が私に赦しを願いさえするならばその人を赦してあげるでしょうけれど」。神の赦しは私たちが神に願う前から与えられます。イエスは十字架上で苦しみながらも言われました。「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです」。イエスを侮辱し、殴り、十字架にはりつけにした人々は赦しを請いませんでしたし、赦されたかどうか気にも留めませんでした。それでも主は彼らを赦しました。なぜなら神の御子であるイエスには赦すこと以外できなかったからです。私たちも、神の御旨を行いたいと思うなら、赦すこと以外できないはずです。神は、これまで私たちを傷つけたすべての人々を私たちが赦すことを望んでおられます。彼らが自分のしたことを知っていようと知っていまいと。私たちの赦しを望んでいようと望んでいまいと。

 赦すことは私たちのためになるだけではありません。私たちが赦した人々(彼らが私たちから赦されたことに気がついていなくとも)のためにもなるよう神は前もって計らっておられるのです。「彼らが私にしたことを赦してください」と神に願うとき、神はそうしてくださいます。神は、彼らを罪悪感の束縛から解放し、ご自分に引き寄せることを始められるのに、私たちの赦しを彼らの人生において用いられます。

ステファノが石打ちの刑で殺されるのをパウロは群衆の中にいて見ていました。「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」(使徒7:59、60、8:1)。その日、神がパウロの心に働きかけておられ、そしてステファノの赦しの言葉がその働きを早めたと私は信じています。

 他人を赦すという責任は、私たちに当然のごとく負わされています。私たちが赦さなければ、神の愛をさえぎることになり、自分自身と、赦しを拒む相手を束縛の中に閉じ込め続けることになるのです。

 ビルという囚人が神の赦しの体験を私への手紙に書きました。ちょうどその次の日、彼は大食堂で最大の敵に直面しました。二人は互いに相手を殺そうとねらっていて、10年もの間、刑務所当局は二人を近づけないようにしてきました。二人のファイルには警告印が押され、決して二人を近づけてはならないと記されていました。ところがちょっとした手違いから、二人は朝食のテ-ブルをはさんで互いに相手を見据え合うことになってしまったのです。ビルの最初の反応は恐れでしたが、「このことのために私を賛美しなさい」という思いが湧いてきました。ビルはほとんど反射的に「主よ、今朝ロンとこうして向かい合わせてくださってありがとうございます」と主に感謝しました。

 二人が話している間、ロンは落ち着いていました。ビルはイエス・キリストが彼の人生を変えてくださったことを話しました。そして二人は友として別れました。真夜中、ビルは「ロンを赦してください」という言葉が心に響き、目を覚ましました。ビルは「主よ、ロンを赦してください」と言いました。すると再び眠りにつきながらも、平安とすばらしい喜びを感じました。翌朝、ビルはロンから自分もイエスに出会いたいという言葉をもらいました。

 赦しは、他者に対する憎しみと悪感情の牢獄から私たちを解放します。私たちが皆、私たちを傷つけるためになされたすべてのことについて、すべての人を赦したなら、何が起こるか想像できますか。

 私たちのほとんどは赦しに一つの条件をつけます。私たちは言います。「いいですよ。あなたを赦しましょう。もしあなたが変わるのなら」と。これは本当の赦しではありません。赦しというのは、犯罪人への賠償請求権を放棄することです。それは、もうその人があなたに対して謝る必要さえなくなるということであり、その人が変わることを期待する権利もなくなるのです。赦すということは、その人をありのままで受け入れることです。たとえ、その人が何度も何度も私たちを繰り返し傷つけようとも。

 ペトロはイエスに聞きました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」。イエスは言われた。「いいえ、7の70倍です」(マタイ18:21、22)。もしあなたがその回数を計算して、「わかりました。490回赦したらもうその後は赦す必要がないのですね」と言ったとしたら、このメッセ-ジはあなたには届いていなかったということになります。

 ある女性が、赦しに関しての驚くべき話を手紙で伝えてくれました。この女性は手術の前夜、『獄中からの讃美』を読んで、術後の回復期間中に体験するであろう痛みを神に感謝することに決めました。ところが彼女ばかりか医者や看護婦も驚いたことに、彼女はちっとも痛みを感じませんでした。彼女は神を賛美することが違いをもたらすことを確信し、それからというもの何が起きようと神に感謝することに決めたのです。

 大きな試練が間もなくやってきました。夫が試しに別居したいと切り出したのです。離婚を考えてはいるのだが、まず子供たちと離れて生活することができるかどうかみてみたい、と言うのです。「あの時、神を賛美する力を神が私に体験させてくださったのは、まさにこのとき、神を賛美する力を私が持てるためであるとわかりました」と彼女は書いています。

 1ヵ月後、夫はうちに戻って来ました。子供たちと離れて生活することに耐えられなかったのです。しかし夫は、過去3年間他の女性を愛していて何が何でもその人と結婚したいと告白しました。

 「夫の苦悩を目にすることは私にとっても苦しみでした」と妻は書きました。「夫は、あの愛する女性がいないとみじめでした。でも子供たちを置いて出て行くことは耐え難いことでした。彼はどちらを取ればよいのかわからず悶え苦しんでいました」。それでもまだ、彼女はすべてのことについて神を賛美すると決めていました。「私は、破られた結婚の誓いのため、夫と関わりを持ち始めた女性のため、夫が自分を愛していなくて離婚を望んでいることのため、神を賛美し始めました」。

 1年間、彼女は続けました。夫とはずっと同居を続けていました。そしてある日、かつてなかったほどに互いの愛が新たにされ深まっていることに二人は気がつきました。「私たちの愛がまだ成長し続けていることは今でも私たちにとって驚きですが、神にとって不可能なことはないことがわかりました。神は本当に私たちの悲哀を喜びに変え、私たちの破滅した生活を良いもの、美しいものに変えてくださいました。主に賛美!」と彼女は記しています。

 この女性の話に見られる成功の秘訣は、彼女がすべてのことのために神に賛美する決心をしたからというだけのことではありません。彼女の賛美をとおして力が解き放たれたのは、彼女が夫を進んで赦そうとし、ありのままの夫を受け入れたからなのです。

 それがどんなに困難を伴うことであったかあなたは想像できますか。夫は、赦しを請うたわけでもなければ、変わることを約束したわけでもありません。毎日、彼女は、夫があからさまに他の女性のことを想い、思慕するのを見ました。それなのに彼女は、自分を哀れむよりも、夫の苦悩に同情し心を動かされました。もし彼女が憤り、苦々しく思ったのであれば、私たちはもっとたやすく彼女を理解できたことでしょう。

 他の女性からも似たような話を書いた手紙を受け取りましたが、良い結果は出ませんでした。その手紙は苦々しい思いと不平に満ちた調子で書かれていて、赦そうという態度はどこにも垣間見ることができませんでした。「私は自分の置かれている状況のゆえに神を賛美しましたが、夫は相変わらず救いようがなく、それに意地汚いのです」。

 赦そうとしない人々に共通する特徴は、自分自身の過ちを見たがらないことです(もしかしたら、それができないという事かもしれませんが)。私たちの教会員の一人の婦人が次のような話をしてくれました。彼女の結婚生活は何年間もロ-ラ-コ-スタ-のように上がったり下がったりを繰り返していました。彼女とご主人は一度離婚を体験しており、別居生活も何度かしてきました。彼女はクリスチャンになり、私たちの教会にやって来ました。それというのも夫のために神に賛美する方法を学び、神に夫を変えていただきたいと思ったからでした。彼女は、夫の利己的で自分本位の態度が二人の間のすべての問題のもとになっていると考えました。

 しかし彼女が賛美しても目に見える効果は全くありませんでした。離婚することを再び考えた、3日間の別居生活の間、彼女は最後にもう一度だけ努力してみることを神のみ前で決心しました。「私は、自分自身と神に対して全く正直になり、自分をごまかすのは一切やめることにしたのです」と彼女は私に言いました。

 彼女と夫は翌朝、教会にやって来ました。説教の間に、彼女は、自分自身が神の赦しを必要としているという強烈な思いに捕らわれました。祭壇にひざまずいて彼女は泣きに泣きました。そして自分の席に戻ると夫にも赦しを願いました。「突然、私の心は夫への感謝の気持ちで一杯になりました」と彼女はその時の気持ちを伝えています。

「おかしなことに、私はずっと、夫が悪いのだと思っていました。夫が私に赦しを請わないし、何事に対してもすまないと非を認めたこともないので私は怒っていました。でもとうとう、私の方がすべてをひっかき回していたことがわかりました。私の方こそ、赦されなければならない、利己的で自分本位の人間だったのです」。

 そして、愛と平安に満ちた彼女の心からは賛美がほとばしるようになりました。かつての憤りは完全に消え去っていました。

 イエスは15億円相当のお金を王に借金している家来のたとえ話をされました。家来は借金を返済できず、王に憐れみを願いました。王は借金を帳消しにしてやりましたが、この家来は釈放されるやいなや、自分に30万円相当のお金を借金している男のところに行き、捕まえて首を絞め、すぐに借金を返せと要求しました。その男は返すお金がなく、ひれ伏して、もう少し待ってくれと言いましたが、王の家来は承知せず、借金を全額返すまでと牢に入れました。王はこのことを聞くと、家来を呼びつけて言いました。「・・・『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(マタイ18:32~34)とイエスは私たちに警告しておられます。

 赦さないことは死をもたらす毒です。それは毎日、家族を分裂させています。私たちの憤りはとても些細なことから増幅していきますし、それをほっておくと、赦そうとしない危険な態度を私たちがとっても、そのことに私たちは気がつかなくなってしまいます。

 十代の若者は、お父さんが晩に車を使わせてくれないので頭に来ます。「どうして赦さなくっちゃいけないんだ。お父さんはぼくを信頼していないんだ」と彼は言います。

 十代の若者よ、神はあなたのお父さんの気持ちを変えたいと思えば、変えられることを信じますか。神がそうなさらないとしたら、それは、神が今はまだあなたが車を使うことを望んでおられないからに違いないのです。あなたのお父さんのゆえに神に感謝できますか。そして赦せますか。そうするなら、あなたの家庭の雰囲気が百パ-セント良くなることを私は保証します。お父さんは君が車を使うことさえ許してくれるかもしれません。でもそんなことは重要ではありません。あなたが気づくことで一番大きなことは、お父さんがどんなに駄目で不公平であるか考えるたびに、内部で大きくなっていったあの醜い感情を取り除くことができたということです。

 時として、私たちは赦しを請われたときでさえ、赦しを拒むことに喜びを感じるようです。そんなことがよくありませんか。

 ある夫は、3日も続けて冷凍食品を食べさせられるのはご免だと不平をもらします。妻の方は計画的に時間を使うことを怠ったので悪いと思います。夫は下劣な言葉を残し、食事に手を付けないで戸をバタンと閉め出て行ってしまいます。しかしやがて戻ってきて、「ごめんよ。君の心を傷つけてしまったね。どうか赦しておくれ」と言います。

 二人の間に出来たみぞを埋める機会が訪れたというのに、妻は本当の気持ちを「甘い」ほほえみの下に隠して、「別に何でもなかったの。赦すことなんかないわ・・・」と小声で言うのです。この言葉の裏には、憤りと赦さない心が潜んでいます。-「よくも私を侮辱したわね。覚えていらっしゃい」。

 誰かに私たちの痛いところをつかれたとき、これに似通ったシ-ンを私たちは何度繰り返せばすむのでしょう。「もちろん、赦してあげます。何でもなかったんですから」という言い方をするかもしれません。しかし私たちの行動を見れば、私たちが相手のした不当なことを忘れてもいなければ、相手にそのことを忘れさせようともしていないことは明らかです。

 誰かがあなたに赦しを願い求めたときは、何でもなかったと思っても赦してあげなさい。その人にとってあなたの赦しは大きな意味がありますし、その人と神との関係にとっても重要なことなのです。

 私たちが自分の家族の一人一人を絶えず赦すことから始めることができたら、どれほどの違いをもたらすことでしょう。互いに不平を言ったりイライラしたり怒ったりする代わりに、「主よ、父が私との約束をまたもや破ったことを感謝いたします。父を赦しますから、主よ、あなたも父を赦してください」とか、「主よ、私の子供がまたもやベッドメ-キングを忘れました。感謝いたします。私は子供を赦します」と言うのです。そのようにし始めてごらんなさい。訪れて来る人々が、あなたの家庭と食卓の雰囲気の良さの秘密を知りたいと思うようになるでしょう。そのときこそ私たちは彼らをイエスに紹介することができるのです。

 私たちが、いっしょに働いている難しい人々を赦し、神にありのままの彼らを感謝し始めるとき、どれほどの違いをもたらすことでしょう。

 ロン・ワイマンはクリスチャンになり、すべてのことのために神を賛美することについて書かれた私の本を読みました。彼と彼の仲間でつくった会社は財政難にあえいでおり、仲間同士うまくいっていませんでした。役員会では厳しい言葉が飛び交い、ロンにも話す順番が回って来ました。常々彼は気が短く、すぐカッとなるタイプの人間でした。会議の最中、彼は息をひそめて神と話をしていました。「主よ、この仲間のこと、そして彼らの話していることを感謝いたします。私の怒りを赦してください。今ここで起こっているすべてのことのために、主よ、あなたを賛美します」。彼は話そうと口を開きましたが、彼自身、自分の言葉に驚いてしまいました。「みんなに言い残していることは、私がみんなを愛しているということです」。

 一番厄介なパ-トナ-が退職して自分の権利を売り渡すことに決めたあと、会社は再編されました。やがて利益が増え始め、人々の中にも驚くべき変化が起こりました。彼らが一人また一人とキリストを自分の救い主として知るようになったのです。数ヵ月後、町で行われたキリスト教の集会で、以前怒って会社を飛び出したパ-トナ-が自分の心にキリストを受け入れました。ロイは、「私は一人のパ-トナ-を失いましたが、主を賛美します。私はやがてクリスチャンの兄弟を一人得たのですから」と言いました。

 時として、クリスチャン同士が教会でうまくいかないことさえあります。でもイエスは、「あなたがたが互いに愛し合っているのを見て、人々はあなたがたが私の弟子であることを知るようになります」と言われたのです。

 教会が冷たく、教会員が互いに厳しく批判的であると感じられるときは、赦そうとしない精神がすべての喜びと愛を消しているのかもしれません。あなたがそんな教会にいるならば、あなたをそこに置いてくださったことを神に感謝し、自分自身の態度をよく調べてみてください。

 パウロは書いています。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてのことに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい」(コロサイ3:13~15)。

 もしすべてのクリスチャンが、互いに愛し、赦し合うという責任と特権にふさわしく生きていたなら、今よりはるかに少ない教派しか今日、存在していないことでしょう。常に赦し、愛すること、平和で心を満たすこと、常に感謝することは私たちのすばらしい特権なのです。

 もしあなたが自分の霊的生活が行き詰まっていると感じるなら、神に尋ねてみてください。「私がまだ赦していないことは何でしょうか」と。あなたは時として、神があなたを不当に扱っていると感じることはありませんか。あるいは、神があなたを助けてくださらないし、祈りに応えてもくださらないと考えることはありませんか。そうであるなら、神との間でその問題を片付ける必要があります。神に言ってください。「人々が私を傷つけたり、問題が山積したりするのをあなたがなぜ許されているのか私には理解できません。あなたは私のことを気に留めておられないし、私の生活に良いものをもたらしてくださらないと私はずっと思ってきました。私がそのように思ってきたことをどうぞ赦してください。あなたが私を愛しておられ、生活上のあらゆる問題が私の益になるよう働いておられることを私は信じたいのです」。

 私の友人のジ-ン・ネイルは、ロイ・ロ-チについて話してくれました。その人は身に覚えのない罪で逮捕され、フロリダにある、ジ-ンと同じ連邦刑務所に入れられました。ある男の偽りの証言によってロイは有罪判決を受けたのでした。ある日、ロイはその男が別の罪で捕まり、同じ刑務所に収容されたことを耳にしました。憎しみと怒りが燃え上がり、ロイはこの偽証人の殺人を計画し始めました。彼はジ-ンにそれを打ち明けましたが、殺人の計画を取り止め、むしろこのこと全体のために神に感謝するよう勧められました。そんな勧めにはちっとも合点がいかず、ロイは殺人の計画をあきらめませんでした。

 ある日、ロイは妻と娘が末期癌にかかっていると診断されたことを知らされました。苦悩の中で、彼は二人を助けてくださるよう神に懇願し、ジ-ンに共に祈ってくれるよう頼みました。ジ-ンは、すべてのことのために神に感謝すべきだとまた勧めました。絶望がロイを限界にまで追い詰めていました。彼はひざまずいて、例の男に対する憎しみを明け渡し、神に赦しを請いました。そして、自分が刑務所にいることと、妻と娘が病気であることについて神に賛美することができました。彼は、神がそういった災難をご自分の栄光と彼の家族の益になるよう用いておられることを信じることができたのです。

 2週間後、まさに驚くべきことが起こりました。ロイの妻と娘が癌のすべての症状が消え去ったという報告をしてきたのです。エックス線写真には癌の跡形も見出せませんでした。ロイの赦しが神のいやす力を解き放ったのです。

 あなたは不公平に扱われていますか。悪くもないのに苦しんでいますか。神はそれをあなたの益にしてくださろうとしていることを信じられますか。ヨセフは実の兄弟にエジプトに奴隷として売られました。そのあと、身に覚えのない罪のため2年間を牢獄で過ごしました。自由を取り戻し、国中でファラオに次ぐ高い地位を与えられたあと、彼から穀物を買うために兄弟たちがやって来ました。彼がヨセフと分かると、兄弟たちはヨセフが復讐するに違いないと恐れました。しかしヨセフは言いました。「・・・あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、・・」(創世記50:20)。

 あなたを傷つけた人々が最初から悪をたくらんでいてもいなくても違いはありません。神はあなたの益になるため以外に、あなたを傷つけることが起こることをお許しにならないのですから。それを信じることができるなら、そのことのために神を賛美することができますか。彼らがしたことを本当に喜べるほどに赦すことができますか。あなたがそれほどまで喜び、赦すなら、神はあなたを祝福してくださいます。神は聖霊によってあなたの心を喜びで満たしてくださり、あなたをそれほど長く傷つけ、そして癌のように広がり、あなたから喜びと健康を奪ったあの赦せないという、醜い小さな固まりを取り除いてくださることでしょう。  神は私たちをとても良く知っておられます。なぜなら神は私たちをお造りになった方だからです。神は、私の心に巣くう赦せないという小さな思いさえ、私たちを肉体的、精神的、霊的に非常に損なうことをご存じです。私たちがそのように苦しむとき、神は私たちに隠さずに言ってくださいます。「あなたの痛みは赦せない心から生じています。赦さないなら、私もあなたを赦すことができません。でもあなたが他の人々を赦すなら、私はあなたを赦し、いやし、そして完全に自由にします!」

訳:高浜武則