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第3週「信仰」の目標は、1)信仰のキリスト教的な理解を与える。2)人々が”期待する信仰”を活用するよう助ける、です。
「実に、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。」(エフェソ2・8)。使徒たちはこの良い知らせを宣言しました。全ての人は、イエス・キリストが神の御子であることを信じることによって、神との新しい関係に入ることができると。信仰が鍵で、イエスが戸で、救いが入るべき部屋です。いつの時代においても、キリスト者たちは、父と子と聖霊に対する信仰がキリスト者生活の基盤であるとする正しい見方をしてきました。
しかしながら、今日、多くのキリスト者は、信仰を十分に理解するに至っていません。ほとんどのキリスト者は、キリスト者生活を始めるにあたって、信仰が重要であることは知っています。信仰によって人はキリストとの最初の関係を確立するわけですから。しかし、キリスト者生活のあらゆる場面で信仰が果たす役割を、見落としてしまうことがよくあります。信仰は救いへの鍵であるばかりではなく、神からの贈り物すべてを人が受けるための方法でもあります。その贈り物とは、癒し、導き、祈りへの応答、異語、全ての「聖なる者たちの受け継ぐ、豊かな栄光に輝いているもの」(エフェソ1・18)です。信仰が鍵で、イエスが戸ですが、キリスト者が入る家には多くの部屋があるのです。救いはこれらのうちの一つの部屋にすぎません。信仰は、神の無限の富への鍵ですから、私達のキリスト者生活を通じて不可欠であり、最初のうちだけ欠くことができないのではありません。キリスト者になって二か月であろうと、五十年であろうと、信仰はその人と神との関係の中心に位置する ものです。信仰は、実に、神の御国への鍵です。
第一の最も重要な掟、すなわち、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主を愛すること、に私達が応えようとするなら、霊的に成熟したキリスト者としての信仰がそこになくてはなりません。神に対する私たちの信仰は、信頼によって示されるべきです。小さな子供が自分の父親を愛しているとき、その心は信仰と信頼に満ちあふれており、不信、疑い、恐れなどの気持ちはみじんもありません。ましてや、神の子供である私たちは、神と神の約束に信頼を置くことによって、父である神を愛すべきではないでしょうか。
定義
愛と同じく、信仰は、キリスト者がたびたび誤って解釈してしまう、キリスト教の基本的特質です。多くの人々は、信仰の本質を不十分にあるいはゆがめて捉えてしまっているので、信仰を持つことに挫折感を覚えてしまっています。
本当のキリスト者信仰とは、神に頼ることによって、神がご自身の目的をご自分の民の中であるいはご自分の民を通して全うできるようにしていただくことです。神の目的とは何でしょうか。1)神は、ご自分の民がご自身の愛に満ちたやさしさと忠実さを帯び、ご自分に似たものとなることを望んでおられます。2)神は、ご自分の民を通して他の人々に触れ、また話すことができるように、彼らをご自分の道具にしたいと望んでおられます。3)神は、ご自分の民に、自分たち人間ではどうすることもできない環境をご自身が導くことができるような仕方で、祈ることを教えたいとも望んでおられます。信仰によって初めて、神はご自分の三つの目的を実行に移すことができるようになります。信仰は神が行こうとされている道を神にあけ、神がご自分の民の生活に自由に関与できるようにします。
信仰に対するこのような見方にとまどってしまうキリスト者もいます。信仰を、神から好意を得るためにどうしてもやりとげなくてはならない職務としてとらえているからです。多くのキリスト者は、信仰を、自分と神との間に立っている障害物、満たさなくてはならない厳格な前提条件あるいは責務としてとらえています。信仰に対するそのようなイメージは間違っています。そのようなイメージは、神の目的を読み誤らせ、挫折させてしまうものです。神にとって信仰は、ご自分の民に対する苛酷なテストではなく、神の善良さと力に信頼して、十分にリラックスするための方法なのです。キリスト者が信仰を働かせる時、神の偉大さと自分自身の貧しさ、神の力と自分自身の限界を認めて、自分自身を神の愛に満ちた手の中に委ねるのです。信仰は神からの賜物であり、自我の束縛からの解放です。信仰は職務でも、障害物でも、責務でもないのです。
信仰の基盤
多くのキリスト者は、信仰の基盤が何であるのかよく分かっていません。信仰にはほとんど基盤がないと思っている人々もいます。そういった人々は、信仰を、目隠しをして跳ぶこと、気ままな意志の行為として見ているのです。信仰に危険と意志が入り込んでいるうちは、キリスト者は目隠しをして信仰に跳び込もうとはしないものです。むしろ、キリスト者の信仰は、神ご自身の性質と計画についての神の啓示に対する応答です。神は、聖書・人間の歴史・個人的体験・他者の体験を通して、ご自身を啓示されています。神のご性質は不変であり、神のみことばは必ず遂行されるので、神が過去において行われたことは、将来にわたっても行われることを期待することができます。イエスの衣の房に触れることによって出血病をいやされた女(マルコ5・25~34)と同じく、私たちは神がどのような方であるかを知っているので信じるのです。この女は、イエスのなさった奇跡を見、教えを聞き、彼の善良さを知り、彼の力を目撃しているのです。彼女にとって、手を伸ばし、いやされると期待することは、目隠しをして跳ぶことではありませんでした。むしろそれは、イエスの性質、願い、目的を知っていることを基盤にした極めて合理的な行為だったのです。
キリスト者は、神の性質、願い、目的を、少なくとも三つの方法で、知ることができます。その一つは、神のあらゆるところでの約束を通して知る方法です。聖書には、条件を明確にしたそのような約束が、たくさん載っています。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11・13)、「罪を告白するならば、真実で正しい神は私達の罪をゆるし、あらゆる不義から私達を清めてくださいます」(第1ヨハネ1・9)、「神はおん子を信じる者に永遠のいのちをお与えになる」(ヨハネ3・16)などと書いてあります。人がイエスを信じるならば、永遠のいのちを請い求める必要はありません。神のあらゆるところでの約束の上に立つことができるのです。付随する条件を満たした人はすべて、その約束に対する信仰を働かせるための堅い基盤を持っているのです。
キリスト者が神の要望を知ることができるもう一つの方法は、聖霊の促しです。神はキリスト者の中に住んでおられるので、キリスト者は神から直接、個人的にメッセージを得ることを期待すべきです。そのようなメッセージは、心に植え付けられるはっきりとした言葉であったり、神が何かおっしゃっておられるという内的確信であったりします(聞こえるメッセージや見ることのできるビジョンはめったにありませんが、除外してしまうべきではありません)。聖霊は、バスの中で知らない人に話しかけるように、あるいは頭痛のいやしのために祈るように、あるいは友人にキリスト教の書物を送るように人を導くこともあります。キリスト者は聖霊のそのような促しに信仰を持って応えるべきです。全てのキリスト者は霊の導きに従おうとして間違いも犯しますが、それは、神が直接啓示なさることに対して信仰を持って応えることの重要性を少しもゆるがすものではありません。
信仰の三つ目の基盤は、神の性質を理解することにあります。聖書と個人的体験を通して、神はご自分が人間に対して慈悲、あわれみを持っておられることを啓示されます。
キリスト者はたびたび、普遍的な拘束力を持つ約束があてはまらず、霊の直接的な導きもない状況に直面します。それでも、愛にあふれたやさしさを持っておられる神は働きたいと望んでおられるのではないかと思えてきます。たとえば、聖書には、神があらゆる病気をいやされるという普遍的な拘束力を持つ約束はありませんし、キリスト者はあらゆる病人のために祈るよう、霊の導きをいつでも受けることにはならないでしょう。それでも、父なる神の啓示された慈悲に信仰の基盤を置くことによって、キリスト者はいやしを願うことができるのです。多くのいやし、改心(改宗)、その他の神の働きは、明確な約束や導きではなく神の慈悲に強固に信頼を置いているキリスト者の信仰を通して実現されるのです。
期待する信仰
三種類の信仰すなわち、信じる信仰、信頼する信仰、期待する信仰の区別をはっきりさせるならば、私達は信仰についてもっとよく理解することができます。信じる信仰とは、基本的な教義上の真理を受け入れることをさして言います。そのような信仰は絶対必要です―しかし、十分ではありません。「あなたは神が唯一であるということを信じている。それはよいことである。悪霊どももそう信じており、おののいている」(ヤコブ2・19)。信頼する信仰とは、神が善なる方でありご自分の民を愛しておられ、いつも面倒をみてくださっていることを信じる信仰です。信頼する信仰を持っている人は信条に同意するだけではありません。自分の人生をも神の手に委ねているのです。そのような信仰も絶対必要です―しかし、神はそれ以上のことを求めておられます。神はご自分の民が信じ、信頼し、そして期待することを望んでおられるのです。期待する信仰があれば、その願いはイエスにまで及びますし、イエスが個々の状況の中でお働きになることを期待することができます。
期待する信仰は、その積極的、活力的性質において、他の二つの信仰とは異なります。多くのキリスト者は、信じる信仰と信頼する信仰を十分に持ち合わせているのですが、神が喜んでお与えになろうとしている多くのものを願い損ねています。それは、信じる信仰と信頼する信仰が受け身的になりがちだからです。彼らは神の御旨に従うことと、困難な状況を喜んで耐えることを強調します。しかし、期待する信仰にみられる積極的な応答がなければ、キリスト者は、神が逆境を変えようと望まれているかもしれないのに、それは神の御旨であるとして、逆境を誤って受け入れてしまうかもしれないのです。たとえば、多くのキリスト者は、肉体的病気や経済的困窮あるいは他の苦難を、神がキリスト者を聖化していく上で避けることができない出来事として受け入れます。神は確かに、ご自分の子どもたちを訓練するために苦難や試練を必ずお使いになります。でも、信仰を試し強めるための方法としても苦難をお使いになります。「祈りの集いに行く途中で車がエンストしてしまったわけだが、私があなたを愛していて、エンジンを再始動させてあげたいと思っていることをあなたは信じるか」。「あなたは風邪を引きそうだと思っている。私は、あなたが風邪を引かないですむようにしてあげられることを、あなたは信じるか」。イエスは弟子たちに、たとえ取るに足らない必要のためであっても、力を込めて祈ることを教えられました。
「求めなさい。そうすれば与えられるであろう。捜しなさい。そうすれば、見つけるであろう。たたきなさい。そうすれば、開かれるであろう。だれでも、求める者は受け、捜すものは見つけ、たたく者は開けてもらえるのである。あなたがたのうちで、自分の子どもがパンを求めているのに、石を与える者がいるであろうか。また、魚を求めているのに、へびを与える者がいるであろうか。あなたがたは悪い者であっても、自分の子供たちによい物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父が、自分に求める者に、よい物をくださらないことがあるだろうか」(マタイ7・7~11)。
イエスから特別な助けを当てにすること、手を伸ばしてイエスの衣の房に触れること、イエスに叫び、そして答えを期待すること―これが期待する信仰です。
積極的な応答と確固たる展望
期待する信仰のダイナミックな性質は、重要な真実を明らかにしてくれます。「信仰は積極的で、外面的な応答であり、内面的な情動ではない」。これは、「信仰」という用語の聖書的な意味です。聖書の多くの用語は―たとえば、愛、平安、信仰などは―本来、豊かな内容を持った行動であり、また、感情的な要素も含む関係であるとされていました。今日、これらの言葉は、主としてその感情的要素を連想させます。ですから、人々は習慣的に、誰かに対して感情的に引きつけられることをキリスト者の愛として錯覚してしまうのです。同様に、ほとんどの人達は、心の中で信じる気持ちあるいは確信が沸き上がってくることを、「信 仰」であると思っています。しかし、情動に結びつけられると、信仰は、パチパチ音を立てる定まらない炎になってしまいます。信仰をそのようにとらえるキリスト者は、絶え間ない信仰に生きることが出来ないことを知るでしょう。本当のところ、信仰は単なる情動ではありませんし、主として情動であるわけでもありません。それは、むしろ、感情的要素を含む考え方、話し方、行動の仕方なのです。
信仰は外面的な応答(行動になって外に表れるもの)です。あなたが愛において行動するならば愛があるのと同様、信仰において行動するならば信仰があるのです。しかしながら、信仰は単に特定の行動であるだけではありません。人のキリスト者生活全体を特徴づけるべき見通しでもあるのです。信仰に満ちたキリスト者であれば、どんな状況にあっても喜び、神があらゆる事をみ摂理によってコントロールしておられることに希望を置き、不安・恐れ・否定・敵意・落胆などの態度を避けることでしょう。ですから、信仰には一連の行動と総括的な見通しの両方の側面があるのです。