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癒しのカリスマと癒しの祈り

『今、ここにある奇跡』の第9章「癒しのカリスマと癒しの祈りの概観」から

イエスのご自分の弟子たちに対する最初の指示は次のとおりでした。

行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ10:7-8)

ヨハネ14章12節でイエスは言っておられます。

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。アーメン、アーメン。

イエスはこうも言っておられます。

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」しかし、あなた方は聖霊があなた方の上に降られるとき力を受ける。(使徒言行録1:8)

主はいつもご自分の約束に忠実です。カトリック・カリスマ的刷新において、主は、癒しのミニストリーを非常に積極的に行っている多くの男女、聖職者、修道者、一般信徒を立ち上げて来られました。癒しは、第一コリント12章で言及されている霊的賜物の一つで、教会に仕え、教会を教化するものです。

癒しのミニストリーの目的

私は伝道、教え、癒しのミニストリーを行っていますが、癒しのミニストリーには次の目的があると認識しています。

1 福音書が神のみことばであり、イエスが生きておられることを証拠立てる。

聖書は、イエスがあらゆる種類の病気、あらゆるタイプの疾病、癒しのために主の元に来たすべての病人を癒されたと記しています。イエスはずば抜けて優秀な癒し主です。マタイ4章23-25節は次のとおり書いています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」

2 神の国が近づいたことを示す。

神の国は今ここにあります。神による癒しが起こり、抑圧されている者が自由にされるときはいつでも神の国が現れているのです。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(ルカ11:20)

3 神に栄光と誉れを帰す。

ルカ17章12-19節に次のように書いています。

「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。イエスは言われた。『清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。』それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」マタイ15章30-31節は次のように書いています。

「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」

4 人々をイエスに引き寄せ、救いをもたらす。

人々はイエスを彼らの主、彼らの救い主として知るようになりました。イエスの力とその御手による癒しを経験したからです。マタイ9章9-12節は次のように書いています。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。』」

5 神の愛、共感、慈悲を示し、人間の苦しみを和らげる。

イエスのミニストリーを見ると、癒すことは主の本性であり、主は人々が苦しむのを見ることに耐えられないとわかります。「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」(マルコ1:40-42)

6 神の約束の成就として

マタイ8章16-17節で、神のみことばは言っています。「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」

7 イエスの悪魔に対する十字架上での勝利を再度示す。

使徒言行録10章37-38節ではこう言っています。「あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。」神のみことばは、第一ヨハネ3章8節でこうも言っています。「罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」

ローマ・カトリック教会による癒しについての教え

『カトリック教会のカテキズム』は、明言しています。「キリストが病人に対して共感を抱き、さまざまな病人をいやされたということは、神がその民を訪れてくださり、神の国が近づいたということをはっきり示すものです。イエスはいやす権能だけではなく、罪をゆるす権能も持っておられます。イエスは人間の霊肉全体をいやしに来られました。病人が必要とする医者です。」(1503)

教理省から出版された『癒しの祈りについての教え』という本では、こう書いています。「キリストの病者との出会いは、わたしたちが福音書の中に見出す最も人間味のある場面の1つです。この出会いは、人間のペルソナ(人格)が総体的かつ全体的に救済されるためであり、ただ身体の健康をもたらし、肉体的な病を克服し、それ故に『最後には死を制覇するという不可能な目標に拘泥する』(訳注:日本的な感覚で言えば「不老不死の薬を探し求める誘惑」)のを防ぐためだけにあるのではありません。キリストと病者との出会いは、福音書にあっても、また現代でもなお、人間のペルソナを総体としていやすことであり、それ故、永遠の相でいやすことなのです。」

教皇ベネディクト16世は、その著書『ナザレのイエス』において、「癒しは、使徒的ミッションそれに一般的キリスト教信仰において、欠くことのできない特徴です」と書いておられます。

「キリスト教は“治療的宗教”、癒しの宗教であるとも言っていいでしょう。十分に深いレベルで理解されるとき、これは、贖いの全体的内容を表現していると言えます。キリストにおける救いは、究極的には人類の最も深い傷、つまり、私たちの罪とその結果生じた神からの離反という傷の癒しです。逆に言えば、癒しが満ちるところには、罪の赦しと神との交わりの回復があります。」

『癒しの祈りのためのガイドライン』という国際カトリック・カリスマ的刷新事務局(ICCRS)の教義委員会から教理省の認可を得て出された小冊子によれば、癒しには4つの種類(カテゴリー)があり、1)肉体の癒し(肉体的な病・不具からの癒し)、2)心の癒し(感情的な傷を含む精神的な傷への癒し)、3)霊的な癒し(これはとりわけ、人の神との関係を修復する“罪からの癒し”を意味します)、4)悪魔払いと悪霊からの解放 があります。