• 思いがけず聖霊の風の恵みを受けたカトリック信徒が、聖霊刷新とは何か、Jacky のニックネームで具体的に説明するサイトです。テーマは、預言的執り成し、預言、いやし、悪霊からの解放、イスラエル、アメリカ、メシアニックジュー、エキュメニズム、マリア崇敬、聖マリアの汚れなき御心の勝利、第二の聖霊降臨など多岐にわたります。聖霊刷新関連の本もたくさん紹介しています。

あなたは本当に喜んでいますか?

マーリン・キャロザース師の”Bringing Heaven Into Hell”の第9章「あなたは本当に喜んでいますか?」を拙訳でお届けします。

 「自分ではなくあの人として生まれてきたかった」とか、「今の仕事ではなくあの仕事に就きたかった」と思うことがありますか。あなたが、はい、と答えるなら、あなたはまだ本当に喜ぶすべを学んでいるとは言えません。
 生まれつき、手と足の指が1本ずつしかない女性を私は知っています。神がそう望んだのでそのように生まれてきたのだと彼女は信じていました。そして、自分にとって何が最善であるか神はご存じであると彼女は考え、感謝していました。彼女が結婚前に今のご主人とデ-トをしたときのことです。彼は夕食を共にしようと彼女の家にやってきました。彼女はいいところを見せようとして、とても張り切っていたのですが、たまたまお皿を落としてしまいました。その瞬間、彼女の頭をかすめた思いを想像することができますか。しかし彼女はすぐにうまくかわしました。「わたしって不器用ね(訳者注:ここでは、「指が全部親指だ」という慣用表現を使っている)と言いたいところだけど、私にこの表現は使えないわね」と。ばつの悪さなど全く見られず、あるのは明るい笑い声だけでした。
 後ほど二人は結婚し、彼女は2児の母親になりました。子供は二人とも生まれつき手と足に1本の指しかありませんでした。二人は幼い頃から、自分たちが神の目には特別な存在であることを教えられてきました。下の子は、4才のとき、あるお店で店員に言いました。「なぜぼくたちの手には指が1本しかないのだろうと考えているんでしょう。神さまは理由があって、ぼくたちをこういうふうに造られたんだよ」と。
 神が今のままのあなたを理由があって造られたことを信じますか。そしてあなたが今いるところに、神に望まれて置かれたことも。このことについてちょっと考えてみてください。もしあなたが、私や私の知っている皆と同様なら、あなたは様々な環境に取り囲まれており、それらに対して二つのうちのどちらかの仕方で反応しているはずです。それらをうれしく思っていないなら、あなたは落ち込んでいきます。うれしく思っているなら、あなたの気分は上向きのはずです。さて、あなたは今、上昇中ですか、それとも下降中ですか。
 神の子として私たちは環境に対して権威を行使することができます。どうやってそれを行使するのでしょうか。もちろん上昇することによってです。しかし上へ向かうにはどうすればよいのでしょう。打ち寄せる波の中を胸元から下を水につけて自分が立っているところを想像してみてください。さあ、大きな波がやってきます。波についてあまりよく知らないなら、あなたは逃げ出そうとするかもしれません。波はあなたを引き戻し、強烈な力であなたを投げ出すことでしょう。あなたは、息をしようとあえぎながら、ただやみくもに体をばたつかせるだけでしょう。そして浅瀬についたと思ったら、体は痛いし、溺れかけた子猫のように全身がびしょ濡れになっていることでしょう。
 熟練した泳ぎ手達は、良い方法を知っています。まず落ち着いて、迫り来る波に相対します。そして泡立つ波頭の真下にまっすぐ飛び込むのです。数秒後、彼らは波の上に現れ、岸までずっと、なだらかな波の表面で向きを変えたり、浮かんだりすることができます。
 泳ぎ手にとって、波の上に乗る方法は波の下に飛び込むことなのです。クリスチャンにとって、問題の上に立つ方法はそれを甘受(それに服従)することです。
 私たちのほとんどは、問題に押し潰されて落ち込んで行くことの意味を残念ながらよく知っています。私たちはこれまでずっと環境にほんろうされ、打たれ、傷つけられてきました。でもそれは服従(submission)ではありません。むしろ反対です。それに対する正確な言葉は、「屈伏する」(succumb )であり、その意味は、圧倒される、打ち負かされるということです。
 一方、服従は、御父が事態を掌握しておられることを知っており、御父の御手の中で安心している神の子の、あの自発的な行いのことです。服従することにより、事態を克服するための神の権威を解き放つことができます。
 私たちが屈伏するとき、私たちの目は問題に向けられており、心は不平不満で一杯です。私たちが服従するとき、私たちの目はキリストに向けられており、心は賛美で満ちています。屈伏するとき、私たちは惨めさと悲しみの中に、時間の経過と共に、深く深く沈んで行きます。これとは対照的に、服従するとき、私たちはやがて、たとえ問題が残っていても、キリストにおける喜びをかみしめることができるほどに高められていきます。
 幾つもの国が、戦争用の毒ガスを開発しています。それは全く目に見えませんしにおいもしませんが、その犠牲者は、その存在に気づくことなくそれを吸ってしまいます。サタンは、何が起こっているのか私たちが気づかないまま、私たちの心と精神に入りこませることのできる死の「ガス」を持っています。それは、不平を言う態度です。私たちの中には、あまりにも不平を言うことに慣れていて、それが自分の当然の権利だと思っている人もいますが、イスラエルの民が荒れ野で死ぬこととなった原因は、不平とつぶやきにありました。パウロは初代教会のクリスチャンに警告しました。「彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました」(第1コリント10:10)。
 不平は、不信仰と疑いの表れであるがゆえに、致命的な罪なのです。神が事態を掌握されており、あなたにとって最善のことをなしておられると本当に信じていたら、不平を言いはしないでしょう。あなたが不平を言うとき、あなたは屈伏しています。問題によって高められているのではなく、引きずり下ろされているのです。
 それにしても不平が目に見えないガスのようなものであるなら、私たちはそれをどう探知すればよいのでしょう。「このこと全てのゆえに主を賛美します」とまで言いつつ、私たちは自分の苦痛を勇壮に耐えているかもしれません。それでもまだ、私たちのどこかに不平の態度が隠されているということがあり得るでしょうか。
 モ-セは、イスラエルの民に、神の呪いが彼らの上にくだると警告しました。「あなたが、すべてに豊かでありながら、心からの喜びと幸せに溢れてあなたの神、主に仕えないので、・・・・・」(申命記28:47)。ここに私たちの不平を見つけ出す鍵があります。あなたは心底から本当に喜んでいますか。問題を抱えていることを喜んでいますか。痛みのあることを喜んでいますか。喜んでいるなら、あなたは不平を言っていません。喜んでいるなら、それはあなたが神の子であることを確信していることを意味します。あなたは、神があなたを愛してくださっており、完全なご計画のうちに全てのことをあなたの益のために取り計っておられることを信じているのです。あなたには喜ぶべき理由があります。なぜなら今の問題や痛みは、自分に何らかの益をもたらすためにあることをあなたは知っているからです。喜びは服従のしるしです。
 「私は本当にうれしい」と言えるまでに服従したとき、私たちの賛美は純粋で心からのものになります。今度あなたが、「主に賛美」と言いたくなったら、そう言う代わりに、「主よ、ちょうど今、これが起こることをあなたが許されたことを私はとてもうれしく思います」と言ってごらんなさい。もし気持ちを込めて言えないなら、あなたはどこかに小さな不平か不信仰を隠していることになります。一つの小さな不平があっても、その領域においてあなたが真に服従し、真に賛美することの妨げになります。

“Bringing Heaven Into Hell” by Merlin Carothers

訳:高浜武則