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癒しの障害となり得るもの

『今、ここにある奇跡』の第11章をご紹介します。癒しの障害となるものとして13の項目が挙げられています。以下、すべてこの章からの引用です。

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イエスの力強い御名において、そして聖霊の力により、非常の多くの奇跡、癒し、救い、解放がなされたことを目撃したと、私はこの本のこれ以前の章で述べました。

しかしながら、癒しを受けられなかった人々も多くいました。なぜでしょうか。主が私たちに受け取ってほしいと望んでおられる癒しの障害となり得るものをいくつか見てみましょう。

障害となり得るもの

  • 赦さない心、憎しみ、憤慨、恨み

マルコ11章25節でイエスは言っておられます。「立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」マタイ6章14-15節で主は言っておられます。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

多くの人々がこの赦しの問題で苦闘しています。容易いことではありません。しかしながら、これは、意志の問題で、赦すことを意識的に決定できるかどうかということです。赦さない心、憎しみ、憤慨、恨みは、癒しの最大の障害であるだけでなく、肉体的、情緒的、精神的、心理的な病の原因であると治療の専門家から指摘を受けたり、最近の科学的研究により特定されたりもしています。

2002年のある日の夜遅くのことですが、一日中ワークショップと癒しの集会を開いた後、フィリピンのマカティ市のホテルで休息に入ろうとしていたら、ドアをノックする音が聞こえました。フィリピンでの癒しの集会とクルセードを見るために、カリフォルニア州サンフランシスコから私と一緒に飛行機でやって来ていた私の友人マリコ・エンリクエズでした。彼には二人の婦人が同行していました。マリコは私にサンティアゴ医師ともう一人の女性医師を紹介してくれました。彼が言うには、この二人は彼の家族の古くからの友人なのだそうです。彼は、私が寝ようとしていたときにお邪魔したことを非常に恐縮していましたが、子宮癌と診断され、その癌が肺にまで転移したサンティアゴ医師のために祈ってくれないかと私に頼みました。「ボブ、彼女の医者は、あと半年の命だと言っているのだ」とマリオは私に教えてくれました。「どうぞ中にお入りください。サンティアゴ先生、あなたのためにお祈りできるのはとても光栄です」と私は彼女に言いました。私はマリコともう一人の女性医師に私と共に祈ってくれるよう頼みました。

私は三人を「神に癒しとご保護を求める祈り」に導きました。その後で、私はサンティアゴ医師に手を置き、異言で祈りました。すると主が私の心に話しかけられました。「私の息子、ロバーよ。彼女にジョージを赦すように言いなさい。」「主よ、ジョージとは誰ですか」と私は言い、「彼女に言えばわかる」と主は言われました。「サンティアゴ先生、たった今、主が私の心に話しかけられ、ジョージを赦すよう、あなたに伝えなさいと私に頼まれました。ジョージとは誰ですか」と私は好奇心も手伝って即座に聞きまました。サンティアゴ医師はとても驚いたようすで、数秒間、私の目をまっすぐに見ました。その後、涙が彼女の頬を伝わり始めました。「ジョージは私の義理の兄弟です。ささいなことがきっかけで、私たちは疎遠になってしまいました」と彼女は私に教えてくれました。「彼はいまどこにいるのですか」と私は彼女に尋ねました。「近くにいます。時々、教会で彼を見かけます。でも彼があっちに行けば私はこっちに行きます。私たちは互いに相手を無視するのです」とサンティアゴ医師は悲しそうに言いました。「あなたは彼を赦さなければならないと主は言っておられます。それに対してあなたはどう応えますか?」と私は彼女にある意味、挑みました。「確かに、私はそうしなければならないでしょうね。あなたが私に言ったことは神からのものであると私は信じます。主が私にしてほしいと望んでおられることに逆行するならば私は何者でしょう。あなたはジョージを知りませんし、ジョージもあなたを知りません。私たちは初めて会ったばかりです。ですから、どうしてあなたがジョージと私たちの状況を知っているのですか?不思議でなりません」とサンティアゴ医師は、目から涙を拭きながら私に尋ねました。「サンティアゴ先生、イエスは聖霊の力を通して私の心に話しかけられたのです」と私は答えました。「主は、聖霊の力を通して、あなたが霊的に、肉体的に、情緒的に、そして精神的に癒されることを望んでおられると私は信じています。サンティアゴ先生、主はあなたをとても愛しておられます。主は私たちの人生で何が起こっているのかご存知なのです」と私は彼女を励ましました。「赦さない心、憤慨、恨み、憎しみは、たぶんあなたもご存じのとおり、私たちの精神的な健康のみならず、肉体的な健康にとっての毒素なのです」と私はさらに続けました。その後は、彼女を“赦し”の祈りへと導き、さらに進んで、彼女のために癌の癒しを祈りました。「あなたが義理の兄弟を喜んで赦そうとしていることはとてもいいことです。そうではなく、あなたが彼を赦すことを拒んでいたならば、私はあなたのために祈らなかったでしょう。」「それはどうしてですか」と彼女は尋ねました。「私たちは一日中、昼も夜も祈ることができます。でも人が赦すことを拒否したら、その祈りには何の意味もありません。単なる無駄な業で終わってしまいます。なぜならイエスはマルコ11章25節で、『立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる』と言っておられるからです。」これが彼女に対する私の答えでした。

およそ1年半後、南カリフォルニアから電話を受けました。「ボブ・カントンさんですか」と受話器の向こうで相手が尋ねました。「はい、そうです!」「ボブ、私は、マリコの友達で、マニラから来た医者のサンティアゴです。覚えておられますか?」「もちろんです!」「ボブ、私がお電話したのは、癌から完全に癒されたことをあなたにお知らせしたかったからです。南カリフォルニア・カトリック・カリスマ的刷新大会(SCRC)で癒しの奉仕と講話をするために、あなたが今週末、南カリフォルニアに行かれると聞いたのです。それで、あなたを驚かせようと、フィリピンからやって来たのです。そしたら、大会は一週間前にすでに終わったそうですね」と彼女は私に説明してくれました。

「ボブ、あなたがホテルで私と祈ってくださった次の日、私が義理の兄弟の家に直行したことをあなたに知っていただきたいのです。私は彼に赦しを請いました。彼も私に赦しを請いました。ボブ、私たちは和解したのです。私たちは再び口をきくようになり、私の家族と彼の家族もそうなりました。ああ、ボブ、何て気持ちがいいのでしょう。とうとう私たちの家族から重荷が取り除かれたのです。でもボブ、一番のニュースは、6カ月ほど前に、私が癌から解放されたと医者が宣言したことです。癌は消えてしまったのです」とサンティエゴ医師は教えてくれました。「神に賛美!神は本当に善いお方です。神は最高の癒し主です!」と私は感激して叫びました。この経験を通して、私は、癒しと健康の要因の一つとしての赦しの重要性をもっと説くことについて確信を得ることができました。

  • 信仰の欠如

ヘブライ11章1節で聖パウロは言っています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と。マタイ21章22節でイエスは言っておられます。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と。

不信仰は癒しへの大きな障害です。神が癒しを用意し、約束しておられることを信じていないがために、人々が癒されないことが時々あります。聖書は言っています。故郷のナザレにお帰りになったとき、イエスは手を置いて数人の病人を癒されただけで大きな御業を行うことができなかった、イエスは彼らの信仰のなさに驚かれたと。聖パウロは、ヘブライ11章6節で言っています。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」と。もしあなたに信仰が欠けているのなら、あるいは自分の信仰を増し加えたいのなら、賜物の与え主である聖霊に、信仰の賜物を与えてくださるように願ってください。第一コリント11章に述べられているように、信仰は聖霊の賜物の一つです。

時々、信仰の欠如している人々も神から癒しをいただくことがあります。なぜでしょか。考えられる理由として、癒しのミニストリーをしている人の信仰と癒しの会に参加している人々の信仰、あるいは執り成しのグループの祈りが神の好意をもたらすのではないかと考えられます。

私は、ジャージー市から来た男性で、長年にわたって苦しんでいた背中の慢性的な痛みが癒された男性のことを覚えています。彼は、妻を喜ばせるために私たちの癒しの集会に参加したと言いました。彼は、自分が癒されるとも他の誰かが癒されるとも信じていなかったと言いました。彼は、癒しの集会を“いかさま”だと思っていました。彼は、少なくとも20年から25年は教会に行っていないと言いました。数年後、私が再び彼に会ったとき、彼は、癒された後、もっといいクリスチャンになり、教会にもきちんと行くようになったと私に話してくれました。

  • 悔い改めていない罪あるいは習慣的な罪

『カトリック教会のカテキズム』は、罪をこう定義しています。「道理、真理そして正しい良心に対する違反です。特定の物への歪んだ愛着により生じる、神と隣人への純粋な愛の不足です。」聖アウグスチヌスは罪を「永遠の法に反する発言、行い、あるいは欲求」と定義しています。ローマ6章23節で聖パウロは、「罪が支払う報酬は死です」と言っています。悔い改めていない罪と習慣的な罪は、神が人を癒す上での大きな障害となっています。ヤコブ5章16節 で、神のみことばは言っています。「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」と。

ある時、イエスは、ベトザタの池の傍に座っていた、38年間も体が麻痺している人を癒されました。「その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。『あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。』」(ヨハネ5:14)

もう一つの例は、カファルナウムで屋根からつり降ろされた中風の人です。イエスは中風の人に言われました。「子よ、あなたの罪は赦される」と。悲しいことに、今日、キリスト者を含む世界中の多くの人々が罪の意識を失ってしまっています。たとえば、昨今では、婚前交渉、婚外性行為、同性愛行為、獣姦、売春、ポルノなどの性的な罪が非常にはびこっています。

4 ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりすること

第一コリント11章27-30節に、「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」と書いてあります。

ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりすることは、重大な結果をもたらします。ご聖体を受けるときは、恵みのうちにいなければなりません。その一方、もし私たちがふさわしい状態でご聖体を受けるなら、それは癒しと回復と恩寵の源になります。『カトリック教会のカテキズム』は述べています。「エウカリスチア(感謝の祭儀)は、キリスト教生活全体の泉であり頂点です」と。イエスの体と血、魂と神性とがご聖体に現存しています。イエスご自身以上にすばらしい癒しの源は他にありません。

5 体を適切にケアすることを怠ること

私たちの体は聖霊の神殿です。もし私たちが自分の体を適切にケアしないならば、たぶん病気になってしまうでしょう。もし私たちが十分な休息と睡眠を取らなければ、十分な栄養を採らなければ、十分に水を飲まなければ、適切な運動をしなければ、結果として病気になります。私たちが自らの怠りを改善しなければ、神は私たちの祈りに応えてくださらないでしょう。

6 オカルトとの関わり

オカルトとは、何か“神秘的な”ものと定義されています。申命記18章10-14節で主である神が言っておられます。「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない」と。主である神はレビ記19章31節でも言っておられます。「霊媒を訪れたり、口寄せを尋ねたりして、汚れを受けてはならない。わたしはあなたたちの神、主である」と。オカルトとのかかわりは癒しにおける大きな妨げとなります。実際のところ、それは、人が悪霊に束縛される原因となります。人はこの罪を放棄し、イエスを自分に人生に招き、敵の手から自分を解放しなければなりません。解放の祈りは、その人がこの罪を後悔し、放棄し、そして心を開いてイエスを自分の救い主、癒し主、主として自分の人生に招き入れた後であってもまだ必要かもしれません。

ローマ・カトリック信徒にとって、赦しの秘跡とご聖体の秘跡は、彼らの人生から悪霊を追い出す上で非常に大きな助けとなり得ます。

7 癒しを求めても癒し主を求めないこと

これは確かに癒しにとっての障害となります。癒し主はもちろんイエス・キリストです。イザヤ53章5節で神のみことばは言っています。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と。出エジプト記15章26節で神のみことばは述べています。「わたしはあなたをいやす主である」と。マタイ6章33節でイエスは言っておられます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と。

私たちは自分の心と精神と全存在を、私たちの病と痛みと苦しみの癒しだけでなく、   主イエス・キリストと主の私たちに対する主権とに焦点を合わせなくてはなりません。

第一テサロニケ5章16-18節で聖パウロは言っています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と。

ルカ17章11-19節は、十人のうち、自分の癒しだけでなくむしろ主イエス・キリストに自分の目を向けた一人の重い皮膚病患者について書いています。「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。『清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。』それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」

8 幾世代にもわたる呪い

出エジプト記20章5節で、主は言っておられます。「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と。幾世代にもわたる呪いがイエスの御名によって打ち破られない限り、おそらく病者は癒されないでしょう。ガラテヤ3章13節で聖パウロは言っています。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」と。

9 悪霊の攻撃

悪霊は、病をもたらすだけでなく、癒しの大きな妨げともなり得ます。ルカ9章1節には、「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」と書いています。

もし病人に悪霊の存在を感じたら、癒しのための祈りだけでは不十分で、悪魔祓いの祈りも必要となるかもしれません。時として、病人が肉体的な癒しを受けることができるようになる前に、悪霊の抑圧からの解放が必要になります。イエスの力ある御名と御血により、無原罪の御宿りであるマリア様のマントに守られ、大天使と天使の軍勢の働きを通して、たとえば、病と苦悩の霊、重圧と束縛の霊、情欲の霊、耳と口を閉じる霊、霊媒に仕える霊、家系に伝わる霊、盲目の霊などを叱りつけ、追い出す必要があるかもしれません。

10 癒しの祈りをする上での執拗さと忍耐力の欠如

祈りにおいて執拗さと忍耐力が欠如しているがゆえに、病者が癒しを受けることができないことがあります。ルカ18章1節で、神のみことばは言っています。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」と。ルカ11章5-8節にはこうあります。「また、弟子たちに言われた。『あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。』」言い換えれば、私たちはあきらめるのではなく、祈り続け、神に感謝し続けるべきなのです。かつてある人が言いました。私たちはPUSHメッソッドを使うべきだと(Pray Until Something Happens. 何かが起こるまで祈り続けなさい)。

11 神のみことばの知識の欠如あるいは無知

私たちに属するものが何であるのか、私たちが主から受け継いでいるものが何であるのか、それを知らないがために、主の癒しの祝福を受け取れないことが時々あります。ホセア4章6-7節で主なる神は言っておられます。「わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる。お前が知識を退けたので、わたしもお前を退けて、もはや、わたしの祭司とはしない。お前が神の律法を忘れたので、わたしもお前の子らを忘れる。彼らは勢いを増すにつれて、ますます、わたしに対して罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える」と。

箴言4章20-22節で神は言われます。「わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。見失うことなく、心に納めて守れ。それらに到達する者にとって、それは命となり、全身を健康にする」と。

12 神の卓越と神秘

人がなぜ癒しを受けなかったのかという疑問に対して全く答えのない場合があります。申命記29章28節で神のみことばは言っています。「隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである」と。私たちは、神に関することは必ずしもいつも説明できるわけではないことを覚えておく必要があります。私たちがなすべきことは、癒しの祈りをし、その結果を主に委ねることです。

13 贖罪的な苦しみ

人間の苦しみは、イエスの受難と一致して受け入れられ、捧げられるとき、自分の罪のための、あるいは他人の罪のための罰を免除することができるという信心、それが贖罪的な苦しみです。『カトリック教会のカテキズム』1505は次のとおり述べています。「多くの苦しみに心を打たれたキリストは、病人が触れるままにさせておかれるだけでなく、『わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った』(マタイ8:17)とあるとおり、人々の苦しみをご自分のものとなさいます。しかし、すべての病人をいやされたわけではありません。キリストによる治癒は、神の国の到来のしるしでした。これらのしるしは、より抜本的な治癒を告げていたのです。それは、キリストの死と復活とによる罪と死に対する勝利です。十字架上で、キリストは悪のすべての重荷をご自分の上に背負われ、「世の罪」(ヨハネ1:29)を取り除かれました。病気は世の罪の一つの結果にほかなりません。キリストは十字架上での受難と死を通して、苦しみに新たな意味を与えられました。すなわち、苦しみはわたしたちをキリストに似た者とし、キリストのあがないの苦しみにわたしたちを一致させることができるようになったのです。」

それについて言えば、肉体的癒しも、どのようなタイプの癒しも受けない人々がいます。なぜなら、主が彼らを選び、彼ら自身の魂あるいは他の人の魂の救いのために有益となる、ある種の贖罪的な苦しみを耐えるようにされたからです。さらに言えば、主は選ばれた人々にこの贖罪的な苦しみを耐える力と恩恵を与えられると私は信じています。『カトリック教会のカテキズム』1508は次のとおり書いています。「聖霊は、ある人々に治癒の特別なカリスマを与えて、復活されたかたの恵みの力を現されます。しかし、いかに熱心な祈りをしたとしても、すべての病気が治されるとは限りません。たとえば、聖パウロはキリストから、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される』(二コリント12:9)ということや、自分が耐えなければならない苦しみには『キリストのからだである教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満た〔す〕』(コロサイ1:24)意味があることなどを教わるのです。」