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哲学者ピーター・クリフト(Peter Kreeft)がその著書『エキュメニカル・ジハード(Ecumenical Jihad: Ecumenism and the Culture War)1994年』の中で手際よく説明している「サタンの戦略」をご紹介します。
ステップ1:サタンの究極の目的は、自分のために魂を勝ち取ることです。
ステップ2:その目的を達成するために、社会を堕落させていきます。この方法は、他人を気にする同質的な社会で特に有効です(良い社会は、善人であることが簡単な社会ですが、悪い社会というのは、悪人であることが簡単な社会であるといえます)。
ステップ3:社会を堕落させる最強の方法は、社会を構成する基礎的な組織である家庭を破壊することです。家庭というのは、ほとんどの人々にとって、生きていく上で最も大切なこと、非利己的な愛を学ぶことのできる唯一の場所だからです。
ステップ4:家庭は、その基礎である安定した結婚生活を破壊されることによって破壊されていきます。
ステップ5:結婚生活は、貞節が守られなくなることによって破壊されていきます。
ステップ6:貞節は、性革命によって破壊されていきます。
ステップ7:性革命は、主としてメディア(そのほとんどは敵の手中にあります)によって宣伝されています。
性革命は、恐らく、歴史上、どの政治的、軍事的革命よりも破壊的であると言えるものとなるでしょう。なぜなら、それは、私たちの生活だけでなく、命そのものの源泉にふれるものだからです。
道徳(倫理規範)の中で、性に関する規範ほど革命的に変わったものは他にありませんが、それは一時的なものであり、サタンは別の分野でも攻撃を加えてくるでしょう。
すでにオランダやオレゴン州では、安楽死が合法化されています。
性革命の劇的勝利は、堕胎が当然のこととして社会的に認知されるようになったことです
道徳の中で、誰もが当然のこととして挙げるのは、「汝、殺すなかれ」ということですが、性革命は、この部分で、人々の良心をも堕落させてしまいました。
堕胎というのは、セックスをしたいが故に赤ん坊を殺すことです。
セックスに関係なければ、堕胎が合法化されることはなかったでしょう。
誰も無意味に赤ん坊を殺したいとは思わないからです。
堕胎は、産児制限の一形態として要求されます。産児制限が要求されるのは、赤ん坊をつくらないでセックスをすることが要求されるからです。
社会の堕落を解決する方法はだた一つ。そして、それは、2つの部分で成り立っています。
第1原理:社会秩序の基盤は、道徳である。
第2原理:道徳の基盤は、宗教である。
(第1原理について)
道徳(倫理規範)なしに成功した社会はありません。誰もが知っているように、アメリカでの道徳の乱れはひどいものがあります。しかし、(主観的価値観に相対する)客観的道徳の崩壊の方がより破壊的であることに皆が気づいているわけではありません。道徳を実行しなくても道徳さえあれば、そこに戻ることができます。しかし、道徳を信じなくなったら、戻るところがありません(ドライブの最中に地図を焼き捨てるようなものです)。
たとえば、数年間前の全国的な調査によれば、教育学部に学ぶ将来の教員のうち、11%だけが、客観的な道徳の存在を選択肢の一つとして生徒に提示できると回答し、89%は、選択肢の一つとしてさえも容認できないと回答したとのことです。
もちろん、客観的な道徳あるいは自然法というのは、道徳についての数多くのオプションの一つではありません。道徳そのものの定義であります。
「主観的な道徳」は、矛盾した言い方です。道徳でも何でもありません。
自分で規則を作ることができるなら、それを変えることもできることになります。自分で自分を縛るだけなら、本当に縛られていることにはなりません。拘束力のない道徳は、道徳なんかではありません。C.S.ルイスは、「主観的道徳は、確実に人類を滅ぼし、魂を地獄に落とす」と書いています。
(第2原理について)
あらゆる時代、あらゆる場所、あらゆる文化の、大多数の人間にとって、道徳は宗教にその基礎を置いています。絶対的宗教を持たないで、絶対的道徳を信じることができたのは、プラトンやアリストテレスなどの少数のエリートだけです。原因である神を知らないで、その結果である道徳律を知ることは理論的には可能ですが、歴史は、宗教をベースに持たない道徳の良き例をほとんど持ちません。今日の合理的、非宗教的道徳を持とうとする試みは、啓蒙思想から生じたささくれのようなものです。
大多数の人は、ドストエフスキーの「神がいないのなら、すべてが許される」という言葉に賛同するでしょう。犯罪への歯止めが、人々の良心ではなく、警官の存在にあるなら、その警官の良心はどうなるのでしょう。
だれが警官を見守るのでしょうか。不道徳者の社会を見守るためにどれだけの警官が必要になるのでしょうか。主観的道徳を信奉する人々の社会は、警察国家にならざるを得なくなります。犯罪への有効な歯止めは、良心と警官の二つであり、神は、良心の権威についての唯一の保証人です。
ニーチェは、神の死が客観的真理の死であることも見越していました。
なぜなら、真理は、単に「顔なき神」であるからです。サルトルは言っています。「永遠の真理について考える永遠の精神がないなら、なぜ永遠の真理があり得ようか」と。
回心なしに人々や社会の救いはあり得ません。
しかし、本当の道徳律なしに回心はあり得ません。
従って、サタンは、道徳律を弱めようと執拗に攻撃を加えているのです。