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臨死体験の検証

1990年代に書いた「臨死体験の検証」をお届けします。今、この世にはニューエイジ的思想が蔓延しています。例えば「親を選んで生まれて来る赤ん坊」という考え方はニューエイジ的思想だと思いますので、参考にしてください。

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最初にお断わりしておきますが、私は臨死体験に関心があるわけではありません。しかし、キリスト教書店でも販売され、小教区ばかりか自分の祈りの集いの中でも特定の本についての評判を聞く以上、臨死体験のメッセ-ジを検証しないわけにはいきません。ただ、臨死体験全般について語ることは、スペ-スの関係で無理なので、去年、「すごくいい!」とあるクリスチャンの姉妹に勧められて買った臨死体験の本(訳本、原書名は、Embraced By The Light )を検証することにします。

この本は自分の祈りの集いの中では、別の複数の姉妹からもすばらしい本だと言われましたし、小教区では、敬愛する神父さまがミサの説教の中でその本を紹介されました。その説教を聞いて早速その本を注文した人もいます。神学校の図書室にも置かれているとのことです。その本がいかに教会の中に浸透しているか、おわかりいただけると思います。

著者のアメリカ人女性は、プロテスタントで、臨死体験により肉体という束縛から解放され、霊魂だけになったら、「宇宙の神秘といった問題でも、ただそのことを頭に浮かべただけで、すべてがわかってしまう」といった感じでイエスさまから非常に多くのことを学んできたとのことです。臨死体験中に何かを感じたということだけならまだしも、あくまでもイエスさまから学んできたと主張している以上、疑問点を指摘しないわけにはいきません。

その本には、「生まれるまえの世界で霊的な存在だったわたしたちは、一人残らず天地創造に参加していたのです。」とか「わたしたちは神さまの助手として、この世の植物や動物のいのちを創っていたのです。」というメッセ-ジが出て来ます(75P~77p)。しかし、教皇ヨハネ・パウロ2世推薦の「カトリック教会のカテキズム(英文)」317番の「神のみが宇宙を自由に、直接、誰の助けもなく創造された。」という教えは、そのような可能性を真っ向から否定しています。また、第一バチカン公会議において確認された、「一人一人の霊魂は個別に受胎のときにそれぞれの身体に対して神から創造される」というカトリックの教義にも明らかに反しています。

ヴァッス-ラという人はある時、講演の中で、「私たちは、創造された瞬間、神を垣間見ている」と話しましたが、そのような言い方は、受胎以前における霊魂の存在を意味するものだとある人から批判されました。その批判に対して、著名なマリア神学者であるロ-ランタン神父は、神を垣間見るのは創造される一瞬のことであり、カトリックの教義に反することにはならないと弁護しています。もしヴァッス-ラが批判を受けるべきであるなら、この臨死体験の本は、どれだけ批判を受けてもあまりあるのではないでしょうか。

「生まれる前の場面」という章では、「天の父なる神によって義とされた子供たちは、全員がこの世に行くことを選んだわけではありません。霊の姿のまま神のみもとに残って、この世の人間の守護天使として働くことを選んだものもいます。」と説明されています。しかし、現代カトリック事典(エンデルレ書店)の「霊」という項目を読むと、天使は純霊として、人間は身体と霊魂をもった者として創造されたことがわかります。要するに神は、天使は天使として、人間は人間として造られたのであり、人間になるか天使になるか私たちの側で選べるものではないのです。

また同事典では、霊魂は、自然に身体と結合するよう方向づけられていて、身体から離れた状態では、不完全な実体であるとも説明されています。だからこそ、死んだ人間の霊魂は、肉体の復活を待ち望むのでしょうが、この本では、人間の霊魂は、天地創造のときからすでに存在しており、肉体をまとった状態は不自由で、霊魂の本来の能力が生かせないかのように説明されています。その証拠に、死を扱っている本だというのに、肉体の復活を説明する箇所はどこにも出て来ません。死んだら天国に戻るだけで、肉体は必要ないかのようです。

そのような考え方は、キリスト教の歴史の中で決して新しいものではありません。「人間は、本来神の内にあって、神と同一の本質を有する者であったが、何らかの偶然により地上に転落し、身体の中に閉じ込められて、自己と異質な物的世界に投げ出されている。これは人間にとって非本来的姿であり、<魂の無知>、<迷い>、<眠り>、<酔い>、<忘却>の状態である。しかしある日、自己本来の姿について知識(グノ-シス)が与えられるなら、人間は覚醒する。すると魂は身体を脱却し、神のもとへと帰還の旅を続けて、・・・、やがて至高神の内に入って再び神となる。」(旧約・新約聖書大辞典から引用)というグノ-シス主義(キリスト教の異端の一つ)の考え方に似ています。

そして、このグノ-シス主義的考え方は、現在のニュ-エイジ運動(日本ではオ-ム真理教、幸福の科学などの新々宗教)に継承されています。ニュ-エイジではすべてを相対化し、「神と人間との絶対的な区別はなく、人間は神の一部である」という教えが一つの公理になっています。そしてその意識に目覚めれば、人間はより高い次元に生まれ変わることができると教えているのです。 私は何人かの人々にこの本の危険性や誤りを指摘しましたが、本当に納得してくれた人はほとんどいませんでした。納得してくれたのは、この本を読んで感激のあまり訳者の修道女の黙想会にまで参加した姉妹だけです。その黙想会では、イエス・キリストとか神という言葉は黙想会の最後の頃になってやっとつけ足しのように少し出てきたが、最初は宇宙意識ということを中心に黙想したとのことで、気味が悪くて途中で帰りたくなったとのことでした。臨死体験を批判する人は、私の知る限り、カトリック教会の中にはいないようですが、プロテスタントの牧師の中にいるので次に紹介しておきます。

『最近大きな書店で立ち読みしていたときに、まさしくこのこと(編集者注:聖霊は真理を教えられること)を体験しました。私はある新刊書を見かけ、それに関心を引かれました。2、3週間前、その本について聞いたことがあったので、ざっと読み通してみようと思いました。題名が、本の内容に対する興味をそそりました。表紙にざっと目を通してわかったことは、著者の臨死体験について扱っているということでした。

ぱらぱらとペ-ジをめくり、見出しを見たり、そこここと拾い読みしました。本の内容をおおよそ探ってみたとき、何か私を立ち止まらせて、注意深く目を見張って始めのペ-ジを調べさせるものがありました。まるで内なる警報機が点滅しているかのようでした。「何がおかしいのだろう」と私は自問自答しました。

この疑問が浮かんだ瞬間、内側の混乱を明確に説明する箇所に目がとまりました。その本は、ニュ-エイジの本だったのです! けれども、その本はうまく偽装していて、あたかも臨死体験をして、生き返り、クリスチャンとして栄光の永遠を垣間見て来た人々の驚くべき証しの数々のようでした。

私はすぐさま本を書棚に戻し、書店を出ました。歩き去って行く中で、悪気のなさそうな本の中に嘘と罠を隠す、悪魔の陰険さを思わされました。しかし、また聖霊というすばらしいパ-トナ-がいつも私と共におられ、あの時あの書店でも私の傍らにいてくださってことを知るのは、何とすばらしいことでしょう。あの本に巧妙に隠されていた暗闇に光を照らしてくださったのは、聖霊なのです。』(ベニ-・ヒン著「聖霊さま、歓迎します」255P~256Pから引用)

私は別の記事「ニュ-エイジ運動の危険性」の中で、キリスト教書店に「やすらぎ療法」、「やすらぎの奇跡」などのニュ-エイジ関係の本が売られていることを書きました。それらの本は、関係者の尽力で女子パウロ会の売店からは撤去されました。それらの本以外にもニュ-エイジ関係の本がまだ潜んでいるということは大きな問題ですが、もっと深刻な問題は、ほとんどの人がそのような問題の存在にすら未だ気づいていないということです。

ほとんどの人は、キリスト教書店で売られているような本に問題のあるはずがないと信じ込んでいるようですし、ましてや、それが愛、光、癒し、許し、やすらぎなどの美しい言葉でちりばめられ、人間は変わることができる、愛はすべてを癒すなどと書かれていれば、疑う気にもならないし、十字架、御血、聖霊、復活などの重要な言葉が欠けていてもおかしいと気づかないようです。私は一度だまされた苦い経験があるので、たとえ名の知れた修道女が訳したような本でも、簡単に信じるべきではないと常に警戒しています。あの臨死体験の本を手にしたときも、警戒していたからこそ、気味の悪さを感じ取ることができたのだと思います。

「死ぬ瞬間」シリ-ズや「死にゆく過程の5段階説」で有名なエリザベス・キュ-ブラ-・ロスのことは皆さんもご存じだろうと思います。彼女は臨死体験を経験したことがありますが、臨死体験というより、死の臨床という分野での第一人者ですし、教会関係者に招かれて来日したこともあるくらいですから、彼女については全く問題がないとつい最近まで考えていました。しかし、立花隆氏が彼女に次のようにインタビュ-した時の彼女の返答を読んで、私は彼女に対しても疑問を抱くようになりました。(「臨死体験」上、立花隆著 文藝春秋 1995年発行 439p~440p)

「ロスさん自身は、臨死体験以外に、体外離脱をしたという経験はありませんか。」

「あります。何度もあります。好きなときに好きなように離脱できるわけではありませんが、15年ほど前に、宇宙意識セミナ-に出て、人間は誰でも体外離脱能力を持っており、訓練によってその能力を引き出すことができるということを学び、それができるようになったのです。そういうことができる人が、何千人、何万人といるのです。」

「体外離脱してどこに行くんですか。」

「いろいろなところに行きます。その辺の屋根の上にとどまっていることもあれば、別の銀河まで行ってしまうこともあります。ついこの間は、プレヤデス星団(すばる)まで行ってきました。」

体外離脱については、彼女の最新作「死後の真実」(日本教文社 1995年)にも載っています。臨死体験を研究するために、誘発により離脱体験することを学んだようですが、そのような体験はキリスト教的とは言えないと思います。「かいまみた死後の世界」という本で一躍有名となった臨死体験研究の先駆者ム-ディ博士は、「臨死体験を信じると、あらゆる超常現象を次から次へと何でも信じてしまうようになる人が、体験者にも研究者にもかなりいるが、それは困ったことだ」と述べています(「臨死体験」下、立花隆著 14p )。死後の世界を信じるクリスチャンにとって臨死体験は受け入れやすい現象かもしれませんが、たとえクリスチャンの臨死体験者のメッセ-ジであっても、それを安易に信じることは危険だと思います。へたをすると、「道であり、真理であり、命である」イエス・キリストから離れてしまうことになります。

でも、私が本当に言いたいことは、臨死体験の検証を一つのきっかけとして、今の時代をしっかり検証していただきたいということです。もしかしたら私たちは自分の世界観さえ変えていくことを必要とされているかもしれないのです。 

1 霊
「・・・天使は創造された純霊である。人間の魂は厳密には霊的なものである。人間の霊魂は身体と離れて存在することができるが、現世においては外的行動のためには身体に依存していて、来世においては生来の身体との親近性を保ち、世の終わりの審判ののち身体と再び一致して永遠にいたる。」
(現代カトリック事典から引用)

2 霊魂
「初期の教父たちは全員が霊魂の不滅の信仰を前提として持っていたが、体の復活はキリスト教独特の考えであると考えていた。この考え方にトマス・アクイナスも同意している。・・・霊魂は体がその霊魂に戻されるまでは不自然な劣った状態で存在を続けるのだという、霊魂の不滅に関する信条は第五ラテラノ公会議において制定され、第一バチカン公会議において、霊魂は神によって直接創造され、発達しつつある胎児に注入されるという考え方が確認された」(キリスト教神学事典から引用)

3 霊魂創造説
「個々の人間の霊魂が受胎の瞬間に神から直接に創造されるというカトリックの教義。」(現代カトリック事典から引用)

by 高浜武則