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第2週の2「キリスト者の愛の意味」

「霊的成長コース」

第2週「キリスト者の愛」:キリスト者の愛の意味

正しい概念と誤った概念

キリスト者であろうとなかろうと、ほとんどの人々は、多くの社会的あるいは情緒的混乱の根源に愛の欠乏があると考えています。問題となるのは「愛:是か否か」ではなくてむしろ、人々がどのように愛を理解し、愛を表していくかということなのです。ですからキリスト教の愛の概念と、現代社会で流布している愛の概念との違いをはっきりさせることが絶対的に重要です。両者の概念には大きな開きがあり、キリスト者はその違いをはっきりと知るべきです。実際のところ、この世はキリスト者が互いに愛し合うのを見てもめったなことでは感嘆しません。それは、主として、ほとんどのキリスト者がキリスト者の愛の性質を把握していないからであり、また、そのために、キリスト者特有の方法で互いに愛し合っていないからです。この講話の内容は、愛に対するキリスト教的な見方を、この世的な見方とはっきり区別してもらえるようになるために構成されています。

感情と献身(コミットメント)

現代人は愛を感情として捉えており、行いとして捉えていません。現代人にとって、愛は主として、肯定的な心の動きが起こることによって存在するのです。人々を愛することについてのこの考え方は、神を愛することについての現代的誤解(講話1「神を愛する」参照)すなわち、愛を主として心の動きの経験として理解することに似ています。現代人は、他人に対して熱情を感じる時や、苦しんでいる世に対して同情の念に駆られる時に、本当の愛を体験しているのだと思っています。愛に対するそのような見方は聖書的なものではありません。実際のところ、感情は利己的あるいは自己満足的な態度を秘めていることさえあり得るのです。キリスト者の愛は、献身的で人格的な関係のうちに具体的に表されます。すなわち、世話をすること、気づかうこと、奉仕をすることによって表現されるのです。キリスト者の愛は主として、心の動きではなく意志と行動に関わることなのです。

キリスト者の愛は、聖霊の力による行いであり、他者に対する真に人格的な献身(コミットメント)を通して表されるものです。キリスト者は、職場の人々や、すぐ近くに住んでいる隣人や、教会あるいは祈りの集いのメンバーを愛するために、押さえ切れないほどの感情が起こって来るのを待つ必要はありません。彼らに対して愛をもって、ふるまうべきであると心に決め、神の助けを願い、そして愛にとりかかることができるのです。愛による真に人格的な献身があれば、それは自ずと他者のための実際的行動になってきます。イエスは、真に人格的な献身によっていかにキリスト者が互いに愛し合うべきかを示す二つの掟を与えてくださっています。マタイ22章39節でイエスは、「隣人をあなた自身のように愛せ]とお命じになりました。著名なキリスト教作家であるc. s.ルイスは、この命令を自著『単なるキリスト教』の中で検討し、「自分自身を好いているとか、愛しているという感情をいつも抱いているわけではなく、また自分の交際している人々と共にいたとしても、いつも楽しいというわけではない」ということを発見しています。ですから、「隣人を愛せよ」というのは、明らかに「隣人を好きになりなさい」とか「隣人に魅力を感じなさい」という意味ではありません。

ルイスは重要な真実を明らかにしてくれています。人々は、たとえ自分自身に対して常に愛情を感じているわけでなくとも、なお自分自身の肉体的、情緒的、精神的な必要を満たそうと気を遣っているのです。人は、自分の欠点を受け入れそれを正すことによって、適量の食物と休息をとり運動をすることによって、自分の体の悪いところが速やかに治るように気づかうことによって、十分な愛情と理解を得ることができるように行動することによって、そして一般に、個人的な健康とキリスト者としての成熟性を向上させることによって、自分自身を愛します。以上の方法で自分自身の世話をするために、キリスト者は自分に対して好感惰を抱く必要はないのです。同様に、イエスの掟によれば、キリスト者は、自分の感情がどうであろうとも、自分自身を扱うように他人を扱わなければならないのです。

キリスト者の愛についてのイエスの二番目の啓示は、イエスご自身の示された愛に見ることができます。ヨハネ13章34節でイエスは弟子たちに言われました。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」。イエスはどのように弟子たちを愛されたのでしょうか。イエスは彼らと共に生活し、彼らに食べ物を与え、彼らの世話をし、彼らに来たるべき王国の真実を教え、ついには、彼らのために自分の命をお与えになりました。イエスが彼らを弟子として選ばれたのは、彼らに人間的な魅力をお感じになったからではありませんし、彼らがイエスと同じ関心事を抱いたからでもありません。イエスは彼らに対していつも愛情を感じておられたわけでは決してありません。ましてや、ご自分を殺そうと謀った敵に対してはどれほどの愛情を感じられたというのでしょうか。それでもイエスは敵をも愛し、彼らのためにも亡くなられたのです。神の人間に対する愛は、深くて、焼き尽くす愛です。でもそれは、心の動きに基づいたものではありません。その愛の根源には、仕え、世話をし、気づかおうとするコミットメント(最後までやりとげようとする決意)があるのです。

たとえ、そのようなコミットメントに根付いていても、キリスト者の愛は、ドライで非人間的なものではありません。それどころか、やさしく繊細で人間味あふれるものであるべきです。キリスト者の愛は、感情的に引きつけられることによって生まれてくるものではないとしても、感情において受け入れ支えようとする態度が必要です。愛情、同情、賞賛の念は愛する上で助けになり得ますし、私達はそういった感情を悪者扱いしたり、押し殺したりするべきではありません。

しかしながら、肯定的情動は愛の助けになるだけで、愛そのものではありません。温かい感情が沸き上がらない時でも、キリスト者は、思いやりと気づかいの伝わるように愛を表現すべきです。実に、キリスト者が感情にかかわりなく個人的に互いに愛すれば愛するほど、こんどは感情が愛を支えてくれるようにますますなっていくのです。キリスト者の情緒が―人格的で献身的な愛の奉仕において―適切に機能していれば、キリスト者は、神が愛するように愛することもできるのです。

人間関係のタイプ

キリスト者の愛をあやふやなものにしているもう一つの原因に、様々な人間関係の違いをあいまいにしようとする現代の傾向があります。今日、多くの人々が、愛はあらゆるタイプの人間関係に同様に示されるべきであると思っているのです。

それとは逆に、聖書は愛と人間関係に対して全く異なるアプローチをしています。キリスト者の愛をどのように表現すれば適切であるかは、他者との関係において個々人がどのような立場に置かれているのか―性別、年令、与えられている権威、家族の中の地位等―によって異なります。父親は息子をしつけるべきですが、雇用主をしつけるわけにはいきません。子供は父親を敬い、父親に従うべきですが、近所の遊び友達に同じ態度をとるべきではありません。愛の表し方の様々な違いをとらえる上で、古代ギリシア語は英語よりもすぐれています。聖書の記述者たちは、性愛、兄弟愛、家族愛、歓待愛に対して異なるギリシア語を用いています。これらの愛は全て、新約聖書の記述者たちが神の献身的で人格的な愛を表現するために選んだ、ギリシア語の言葉「アガペ」の表れでもあり得ます。

上記のように聖書の中で使い分けられている区別のうち、最も重要なものの一つは、「兄弟」と「外部の人々」(コロサイ4:5、第1コリント14・23~24)の違いです。「兄弟」とは、洗礼によって神の民の仲間入りをし、お互いに対して愛の特別なコミットメントを持っている人々のことです。「外部の人々」とは、まだそのような関係に入っていない人々のことです。ある人々は「兄弟愛」の意味をあまりにも排他的にとらえてしまい、キリスト教が「兄弟愛」を強調することに反対します。そのような人々は、イエスのみ言葉「あなたがたを愛する者をあなたがたが愛したからといって何の恵みがあるだろうか」(ルカ6・32)を引き合いに出すのです。たしかに神の愛は無条件の愛です。キリスト者は、すべての人々を、彼らがキリスト者であろうとなかろうと、愛すべきです。それにもかかわらず、キリスト者同志の間には、キリスト者と非キリスト者の関係と異なる関係があります。キリスト者の生活の中心には神との親密な一致があります。キリスト者は非キリスト者への奉仕に自を献げることができますが、同じ霊的家族に属している人と特別な関係を持っているのです。ちょうど人が血を分けた兄弟に対して特別な恩を持っているのと同じように。父と子、あるいは夫と妻との関係に見られるように、人間関係のタイプは愛の表現に影響を与えます。