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『笑うイエス―人間イエスを新鮮な目で見るー』(フィオ神父著)の重要箇所の紹介

2022年7月31日にカリスプレスから『笑うイエス』(原題:Jesus Laughed!)が翻訳出版されました。聖書教師として世界的に有名なフィオ・マスカレナス神父の新たな著作です。タイトルから想像がつくように、イエスがとても喜びに満ちた方であったことを聖書を根拠に説明しているのですが、聖霊刷新関係者にとって最も重要な箇所は、各章よりもむしろ付録の中にあるように思います。

聖霊による洗礼(聖霊の満たし)を受けたときの喜びは大きなものがありますが、やがてそれだけでは不十分であると感じるようになります。一体なぜなのでしょうか。それを巧みに説明しているのが、付録1の後半にある「霊に燃えて」です。以下抜粋します(訳者了承済み)。

「霊に燃えて」

この、すべてのキリスト者が聖霊に対する生き生きとした強い信仰をもつべきであるという聖ヨハネ・パウロ二世の(そして明らかにイエスの)願いを追求する中で、聖パウロもすべてのキリスト者が「霊に燃える」ことを望んでいること(ローマ12・11)に私たちは留意すべきです。実際、すべてのキリスト者は、その定義からして、洗礼の秘跡を受けた日から神の霊が内在する賜物を受けていますので、すべてのキリスト者は「聖霊に満たされていながらまだ飢え渇いており」、その同じ聖霊の力の内にまだ「聖霊を求めている」のだと言うことができます。

諸聖人の生き方は、この神聖な人間のパラドックスをうまく説明しています。洗礼を受けたすべてのキリスト者の内で、聖性は執拗な罪深さと、力は弱さと、知恵は愚かさと、平和は新たな妨害と、神性は人間性と格闘します。「聖霊に満たされていながらまだ飢え渇く」ことは、終末論的な現実を経験することです。その現実とは、インマヌエル(神は私たちと共におられる)とマラナタ(主よ、お出でください)が永続的な緊張関係にあること、贖われた男と女はすでに神の御国のうちにいるが、まだ御父の家への途上にいる巡礼者であること、そして、イエスの弟子たちは「聖霊を所有している」がまだ「聖霊に所有される」のを待っているということです。イエスご自身、「聖霊に満たされていながらもまだ飢え渇いて」おられました。「神は、この方を通して(……)奇跡と不思議な業としるし」を行われました(使徒言行録2・22)が、イエスは「深く嘆き、涙を流しながら(……)祈りと願いとを献げ、(……)御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました。」(ヘブライ5・7、8)

比類なく模範的な弟子でイエスの母であるマリアも同様に「聖霊に満たされていながらもまだ飢え渇いて」いました。マリアは「恵まれた方」(恵みに満ちた方)であり、「女の中で祝福された方」(ルカ1・28、42)でしたが、それでも人間としての理解不能(「両親には、イエスの言葉の意味が分からなかった-ルカ2・50」)と痛み(「剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう-ルカ2・35」)を経験しましたし、高間の使徒たちと同様、聖霊の新たな訪れを飢え渇きの内に待っていました。

使徒たちも「聖霊に満たされていながらまだ飢え渇いて」いました。ペトロは、イエスがご自分の教会をその上に建てられた岩でしたが、主を三度も裏切りました。パウロは「あの偉い使徒たちに比べて、少しも引けは取ら[なかった]」(二コリント11・5)し、「第三の天にまで引き上げられた」(二コリント12・2)のですが、「あまりに多くの啓示を受けたため、それで思い上がることのないようにと、[その]体に一つの棘が与えられました。」(二コリント12・7)

過去何世紀にもわたり、「霊に燃えよう」としながら、次のように身に付けるべき対となる要求を成就する必要のなかった聖人はただの一人もいません。「聖霊に満たされている」けれどもまだ「飢え渇いている」こと、充足も空虚も知っていること、すべてのことにおいて神を見出すけれどもまだ神を絶えず探し求めなければならないこと、そして、「聖霊の宮」となる特権を受けているもののまだ完全に息子(子)としていただくまで待たなければならないことです。「霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。」(ローマ8・23)

飢え渇きは回避できない現実です。物質領域において人は好きな食べ物で腹を満たし、豊富な飲み物で十分に満足できますが、ものの数時間でまた飢え渇きます。年齢、肌の色、信条、社会的地位に関係なく、すべての人は肉体的な弱さや定期的な栄養摂取の必要から逃れることができません。ですから、霊的領域においても飢え渇きは常に存在する現実です。聖アウグスチヌスはこれを上手に言い表しています。「私たちの心はあなたを求めるように創造されました。神よ、私たちの心はあなたの内に憩うことを知るまでは安らぐことがありません。」人は神とその要求とを無視するふりをするかもしれませんが、全ての人間が愛(愛され、それに応えて愛する経験)を求めるよう突き動かすのは、人の深い霊的孤独と飢え渇きです。そのような探求を通して、宗教を試す人もいれば他の世俗的なヒューマニズムを試す人もいますし、お金、薬物、セックス、アルコール等を試す人もいますが、「霊に燃える」という霊的な飢え渇きは、神においてのみ決定的にそして真に成就され得るのです。

しかも、良き知らせがあります。それは、神がご自分の民の内的な渇望を成就するために偉大なことをなさったということです。神はそれを、ご自分の息子イエス・キリストを通して(あるいはその内に)無償で寛大にこの上ない自由と力をもって行われてきましたし、今でも行っておられます。これはキリスト教が持つ独特の意義で、聖霊における命を成就しながらこの世をご自分と和解させて新たにされる神についての良き知らせ(二コリント5・17~20参照)をもたらしています。人は行いでも能力でもモーセの律法でもなく、ただイエス・キリストの恵みによって「霊に燃える」ようになるのです。

キリスト者にとってこの意味合いはとてつもなくすばらしいものです。この世において、人はただ「聖霊に満たされている」とは決して主張できませんし、ただ「ハレルヤ、私は救われている」とも決して言えません。本当のキリスト者は、「聖霊に満たされて」いるとともに「飢え渇いて」います。本当の弟子は、罪の贖いの豊かさ(聖霊における生活)と霊的貧しさ(神の慈しみの必要性)の両方を知っています(マタイ5・3参照)。聖霊に満たされた弟子は少しずつ、もっとイエスのようになり(二コリント3・18)、もっと身をもって十字架に与るようになる(コロサイ1・24参照)必要があります。そうしなければその人は、霊で始めたことを「肉で仕上げようとする」(ガラテヤ3・3参照)危険を冒すことになるのです。霊的生活において、人は決してとどまってはいない、その人は成長しているか、後退しているかのどちらかである、と言われています。

ですから、キリスト者は絶えることなく「目を覚まして祈って」(マタイ26・41)いなくてはなりません。自信をもちながらも謙遜をもって目を覚まし、期待する強い信仰をもちながらも自分は価値がない者であるという内的な確信をもって祈るのです。すべてのキリスト者は、諸聖人がそうであったように、パウロの言葉を真剣に受け止めなくてはなりません。「むしろ、自分の体を打ち叩いて従わせます。他の人に宣教しておきながら、自分のほうが失格者とならないためです。」(一コリント9・27)

イエスご自身も「人間の知恵」を優先して「神の愚かさ」を拒否する誘惑にしばしば遭われました(マタイ4・1~11に挙げられている誘惑のリスト参照)。しかし私たちの長兄は、比類なく「霊に燃えて」おり、これらの誘惑に対抗する手段を断固として取られました。差し迫った司牧の務めのために割り当てられた時間を削らないよう、日々、朝早くあるいは夜遅くに熱烈な祈りの内に長い時間を過ごす努力をされたのです。

「霊に燃える」キリスト者もまさに同じ誘惑に直面しますし、日々、個人の祈りの時間の内に充実した時間を過ごすことを通して、同様に誘惑を克服するのです。さらに、本当のキリスト者は人間の共同体から孤立していてはなりません。というのも、主人の願いは、ご自分の弟子たちがこの世から取り去られることではなく、「世から出た者」にならないことだからです(ヨハネ17・15)。すなわち、お金志向、快楽志向、傲慢、自己満足、個人主義にならないという意味です。イエスの弟子たちはもっともっと聖霊に満たされなければならないだけでなく、霊において貧しく聖性に飢え渇いたままでなくてはなりません。互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはならないのです(ローマ13・8参照)。 神から私たちへの無償で豊かな賜物であるイエスの「子としてくださる霊」(ローマ8・15~17)はそのようなパラドックスを可能にします。「霊に燃える」弟子だけが社会に対して真の塩とパン種となり、この世で光として輝くのです。ですからこの世に生きている間、皆で真摯に忍耐強く祈りましょう。「聖霊来てください。信じる者の心を満たしてください。あなたの愛の炎を私たちの内に燃やしてください。そしてこの地の表を新たにしてください。アーメン。」

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