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第2週の3「キリスト者としていかに愛するか」

「霊的成長コース」

第2週「キリスト者の愛」:キリスト者として如何に愛するか

障害を征服する

キリスト者として愛のうちに成長しようと努めるときに、人々がぶつかる問題の多くは、前に説明したように、愛についての間違った認識によって生じます。現代社会は、演劇・小説・新聞・雑誌・テレビ・録音・音楽・映画によって伝えられる愛についての誤ったイメージで満ちあふれています。それらの大衆的なイメージは、現代人の意識の中にまで入り込んでいるので、キリスト者の愛についての教えをすぐに理解することも受け入れることもできない人々がいます。たとえ、その教えを実際に受けいれることができる人々であっても、彼らが長い間受け入れてきた間違った認識と闘うために骨を折らなければなりません。次に、間違った認識についていくつか説明しましょう。

1 否定的感情

よくある問題として、他者との関係においても誰もが時々経験する、イライラ、憤り、嫌悪感などがあります。そのような情緒的反応は良くはありませんが、かといって、重大な罪であるわけでもありません。してしながら、まだ多くのキリスト者は、愛を心の動きとしてとらえているので、否定的感情に悩まされると、自分を責めることによって無力になってしまいます。現実には、愛があるかどうかは、行いによって分かるのであり、心の動きは関係ありません。自分の心の動き(情動)に対して良心のとがめを感じ、誤った罪悪感に染まっている人々は、そのような感情が自省と自責を促さないよう、それを無視すべきです。キリスト者は誰をも好きになるようにコミット(献身)しているわけではありません。つつましく、愛のある奉仕にコミットしているのです。

2 愛を「感じる」こと

以上と関連するもう一つの問題は、愛を「感じ」ないが、それでも愛があるように行動する人を時として悩まします。そのような人は情動がないのに、愛があるようにふるまうことが偽善であると感じるかもしれません。愛の感情が足りないことに罪悪感を持っているかもしれません。この人の場合も、情動が前面に置かれているのです。キリスト者は、むらのある感情がどうであれ、自己非難に陥ることを拒否し、感情を重要視せず、神のみことばの真理にのっとって行動することによって愛することができます。もし人が愛を持って行動し、対立する情動や、情動の不在を無視しようと決心するならば、その結果として通常、肯定的な感情が育まれてきます。

3 気まぐれな愛

誰かに対する感情を変えようとして必死になるが、みじめな失敗をし、愛は気まぐれで個人的に[愛そう]と決断したところでどうにもなるものではない、と決めつける人々がいます。「どうも私には愛せない人間がいるらしい」と。それはうそです。神はキリスト者に全ての人々を愛する力を与えて下さっています。この真実に対する疑いは、愛と情動を誤って結びつけることから生じて来ます。もう一度いいますが、キリスト者は、誰に対してもいつも愛情を感じるわけではないかもしれませんが、誰をも愛することが本当にできるのです。

4 多くの人を愛すること

キリスト者として愛する上でのもう一つの障害に、大きな集団の中の多くの人々をどうやって愛することができるのか理解できないということがあります。ここでも、愛と愛情の念を誤って結びつけることが問題の根源にあります。愛を愛情の念と同一視している人々の中には、わずかな人々―親戚、家族、親友―との親しさを暖めるのに長年を費やしている人々がいます。彼らは、自分の祈りの集いの数十人もしくは数百人の人々をどうすれば愛することができるのか理解に苦しみます。なぜなら、その全ての人々と親密になることは明らかに不可能だからです。そのような人々は、他の多くの人々とほとんどあるいは全く親密にならなくても、愛のうちに彼らに自分の生活をコミットする(献げる)ことができるということを理解する必要があります。実に、キリスト者が愛は親密さよりもコミットメントを意味することを理解するようになると、「兄弟愛」は、日々の生活の中で経験することができるとてつもない喜びへと変えられていきます。

聖 霊

キリスト者の愛は決断の実です。それでも、そのような愛は、正しい理解、情け深い性質、強い意志以上のものを要します。キリスト者の愛は神の力を要するのです。聖霊の内在によってのみ、人々は神が望まれるように十分に愛することができます。キリスト者の愛は、イエスがご自分を献げられたように、自己を献げることを意味します。イエスの自己犠牲的な愛にならうためには、キリスト者は、神と一致して生活し、神が必要な恵みをくださるのだという信仰を持ち、神に不断の助けを願わなければなりません。キリスト者は「行いをもって誠実に」(第1ヨハネ3・18)愛する決心をしなければなりません。しかし、神の霊のみがその決心を生き抜く力を与えてくださるのです。