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レクチオ・ディヴィナとは何か?

フィオ・マスカレナス神父の『聖書は永遠の命の言葉!』(2018年7月 HSRO 発行)の第5章「レクチオ・ディヴィナとは何か?」をご紹介します。

もしレクチオ・ディヴィナの習慣が効果的に促進されれば、それは教会に新しい霊的な春をもたらすと私は確信しています」(ベネディクト16世、2005年9月)。

「レクチオ・ディヴィナは、個人的あるいは共同体的レベルで、ある程度まとまった長さの聖書個所を、神の言葉として受け取り、聖霊の促しによって黙想、祈り、および観想に至る1つの読み方である」(教皇庁聖書委員会: 『教会の聖書解釈』、1993年)。

神の言葉は、人生における私たちの日々の経験に光を当てます。そして今度は私たちが、聖書のメッセージの中に自分自身の人生経験と状況とを見出すのです。レクチオ・ディヴィナを通して、聖書に書かれたメッセージは、人生における私たちの日々の旅路に聖霊の息吹と光とを与えてくれる生きた言葉になります。旧約聖書において詩編作者はすでに、「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」(詩編119・105)と認めていました。新約聖書においても、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハネ6・63)というイエスの断固とした宣言があります。

レクチオ・ディヴィナの方式は、最初にベネディクト会の修道士により広められたものですが、基本的に4つのステップで構成されています。

レクチオ、すなわち選ばれた聖書本文を注意深く、敬意をもって読むこと。この読み方は、現代のキリスト者が新聞や本、あるいは聖書にでさえも適用する速読法とはかなり異なります。レクチオとは、沈黙の精神と畏敬の精神の両方において聴くことです。私たちは、個人的に-大きな声ではなく親密に-語りかけてくださる「神の静かでささやかな御声」を聴くのです。今日この日、私たちのためにあてがわれた神の言葉である語句に静かに耳を澄ませながら、ゆっくり注意深く読みます。(マルティーニ枢機卿は、どの個所をその日の祈りの焦点とするか、それは典礼(毎日のミサの朗読配分)に決めてもらった方がよいと勧めておられます。その日の朗読個所を選ぶことによって、「聖書を手段として利用すること」つまり、抱えている何らかの問題に役立てようと御言葉を無理矢理に当てはめようとすることから守ってくれるからです。)

メディタティオ、すなわち(朗読個所の)黙想は、聖書本文をその文脈において理解する上で役立ちますし、そしてもっと重要なことなのですが、その聖書個所における私たち自身の立ち位置を認識する上で役立ちます。ここでは、記憶と想像力とを働かせなくてはなりません。「この個所は何を言おうとしているのだろうか?」と、その個所の基本的な意味を引き出そう、重要な構成要素を見つけ出そうとしながら、その個所を一度読み、さらにもう一度読まなくてはなりません。その個所の意味を探り出すために、聖書個所全体を数分間、次に単語、行、文単位でもじっくり考えます。「ここで何が言われているのだろうか? どのような文脈においてなのだろうか?」と。いったん、私たちに親しく語りかけている聖書の中の言葉や句を見出したなら、それを取り出し、それについて「思い巡らす」ことができます。(一度飲み下した食物を口の中に戻して繰り返し静かに味わう「反すう動物」のイメージが神の言葉を思い巡らすキリスト者の象徴として古代に用いられました)。今日(こんにち)に至るまでキリスト者はいつも、キリストについて見聞きしたことを「心の中で思い巡らす」おとめマリアの模範にレクチオ・ディヴィナへと招き誘う聖書の促しを見て取っています。メディタティオを通して私たちは、神の言葉が私たちだけに向けられた親しい神の言葉、私たちの最も深いレベルで私たちに触れ、感化する言葉になるようにしていただくのです。

オラティオ、すなわち祈りは、神との会話(私たちを御自分の抱擁のうちに招き入れてくださっている御方との愛情に溢れた会話)であり、かつ、奉献、つまり以前は神が気にしておられるとは信じていなかった人生のある領域を神にささげることであると理解されています。この奉献の祈りにおいて、私たちが取り込んだ言葉、私たちが思い巡らしている言葉に私たちの最も深いところに触れていただき、かつ、そこを変えるようにしていただくのです。ちょうど司祭がミサ聖祭においてパンとブドウ酒を奉献するように、レクチオ・ディヴィナにおいて私たちの最も困難で痛みに満ちた経験を私たちが神に向けて高く上げること、そして、その苦い経験に対し、メディタティオにおいて神が私たちにくださった癒しの言葉や句を静かに唱えることを神は私たちに求めておられます。このようにして、私たちは、神の言葉によって私たちの本当の自己に触れていただき、そして、変えていただくのです。そうすると、私たちは次に、神の言葉を通して神が私たちの人生においてなさっておられる新しいことだけでなく、聖書個所を通していただいた恵みにも、神に感謝するよう導かれるのです。

コンテンプラティオ: 変容させる力を持つ御自分の抱擁を受け入れるよう、御自分の言葉を通して私たちを招いてくださっている御方の臨在のうちに、私たちは観想に入ります。つまりただ安息するのです。愛し合ったことのある人なら誰でも、愛に溢れた関係には言葉の要らない瞬間があることをわざわざ教えてもらう必要がありません。これは神と私たちとの関係においても同じです。私たちを愛しておられる御方の臨在のうちにある、この言葉の要らない静かな安息は、「観想」と呼ばれています。私たちは、自分自身の言葉を手放し、神の臨在のうちにいる経験を単純に楽しみながら、沈黙を実践します。

レクチオ・ディヴィナには、神の言葉を仲立ちとして神と共に時間を過ごすということ以外に目的はありません。そのどの局面においても、それがメディタティオ(黙想)であろうとオラティオ(祈り)であろうとコンテンプラティオ(観想)であろうと、どれほどの時間を私たちが使うかは、私たちにではなく、神の霊にかかっています。そうすることによって、聖書を神が本来意図しておられた状態-私たちを御自身に結び付ける手段-にまで取り戻すことができるようになるのです。

レクチオ・ディヴィナの実例:ローマ8・31-35、37-39

導入: 神の言葉は「生きていて力を発揮する」、それゆえ、試練と苦悩の時にとてつもない力を勇気とを私たちに与え、その試練に打ち勝って喜びに溢れるよう助けてくれます。次の引用個所は、聖書全体の中で最も力強い本文の一つです。

レクチオ: 祈りの心で注意深くこの個所を読んでください(2回)。

「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。

わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8・31-35、37-39)。

メディタティオ: 2段階の黙想:理解すること、そしてそれを実現すること/個人化すること。

A.テキストを理解する

1)「だれがわたしたちに敵対できますか?」イエスによる神の救いの計画は、神が私たちの味方であることを、私たちイエスを信じる者に明確に示しています。裁判官(審判者)であられる神は、すでに私たちに有利な判決を下しておられます。「神は御自分の息子でさえ惜しまれなかった」のですから。

2)キリストは死から復活し、天高く上げられて神の右の座におられます。そして洗礼を受けたすべての者のために御父に執り成し続けておられます。

3)「だれがキリストの愛からわたしたちを引き離せようか」:人生におけるいかなる危険や困難が存在しても、キリストの死と復活において全人類に明らかにされているキリストの深い愛を真のキリスト者が忘れることはありません。

4)「わたしたちの主イエス・キリストにおける神の愛」:キリストの公生活に起きた出来事のうちにはっきり示された神の愛は、実にキリスト者の「生」(人生・生活・生命)と希望の揺るぎない土台です! 私たちはこれを毎年、特にキリストの御受難、御死去、そして御復活の神秘においてほめたたえます。

B.テキストを実現する: 聖書のこの個所は今日、私にとって何を意味するのか?

1)あなたの人生において、助け手となるべき人々が全員あなたを見捨ててしまったにもかかわらず、神が助け手としてあなたの味方であったことを確信した時の経験を思い起こしてください。

2)あなたが弱っていた時、試練にあった時、無力であった時に、イエス・キリストをとおして、神の勝利に満ちた愛を具体的にどのように経験したか、思い起こしてください。

3)これまで占星術や迷信に対する「世」の信心にどれだけ影響を受けてきましたか? イエス・キリストの大能に対する薄弱な信仰のせいで、あなたも時々、「世」の信心を重要視することがありますか?

オラティオ: 祈り

主よ、あなたが私を愛しておられること、私の味方をしてくださっていること、私を守ってくださっていることを信じます! 私がこの世の魅惑と偽りの約束に打ち負かされているときは、どうか私を揺すって、この世的なまどろみから目覚めさせ、あなたの愛の言葉が私の歩みを導き、私の人生に光を与えるよう、その道に私を引き戻してください。今日、私は自分の人生の細部に至るまであなたにお委ねし、あなたの、勇気の霊、愛の霊を私にお与えくださるようお願いいたします。

コンテンプラティオ: 観想

下記に提示されている言葉を穏やかに繰り返し、沈黙のうちにこの真理に応えてください。あなたの心をこの真理によって変えていただきなさい。

何であれ、私の主イエス・キリストにおける神の愛から私を引き離すことができるものは一つもない! 「主の祈り」をゆっくり丹念に祈って締めくくりましょう。

『聖書は永遠の命の言葉!』

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