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第1週の3「神を愛する実際的な方法」

「霊的成長コース」

第1週「神を愛する」:神を愛する実際的な方法

神を愛するということが日常生活における自分にとってどういうことであるのか、キリスト者が理解するためには、神に対する自分の愛を表し育むために、はっきりとした方法と行動をとらなければなりません。以下の方法は、何にもまして神を愛するというキリスト者の理想の一環を成す目標です。

1 個人の祈り

神への愛において成長する際、最初のそして最も重要なステップは、個人の祈りを欠かさず行うことです。祈りの中で、キリスト者は、新たに、また深い親しみを持って神を体験し始め、神の力、聖さ、栄光を感知するほどに成長し始めるのです。しかしながら祈りは必ずしも常に感動を伴う体験ではありません。キリスト者は、自分の心の状態がどうであれ、忠実に個人の祈りの時間を守ることによって、神への熱烈な愛を実証することになります。キリスト者が、喜びの時も心の乾いている時も、屈せず祈りをやり通すならば、神に対する献身的な深い愛を表していることになります。しかもその人は、祈りが最も難しい時こそ、しばしば、神が最も強力に働かれる時であることを知るようになります。

2 共同の祈り

キリスト者は神への愛を教会の共同の祈りを通しても表すべきです。神は教会を「聖なる神殿」(エフェソ2・21およびペトロ2・5)となさいました。これは、教会が神の定められた礼拝の場、至聖所であることを意味します。したがって、神を愛し神の臨在の内に生きたいと望むキリスト者は、共同の礼拝と祈りをするために他のキリスト者と定期的に集うべきです。それは、教会での礼拝や祈りの集いなどの大きな集会の中で行うことができます。また、より小さい集まりの中で行うこともできます。なぜなら、イエスは、「二、三人が私の名によって集まっている所にはその中に私かいる」(マタイ18・20、なおヨハネ4・19~23を参照のこと)と言われたからです。秘跡を持つ伝統的な教会に所属しているキリスト者は、神を愛する一つの方法として、その秘跡にあずかるべきです。共同の礼拝の中で、愛をもって神をあがめることにより、キリスト者は他のキリスト者と結ばれるのです。

3 兄弟・姉妹

キリスト者は、自分の考え、体験、賜物、必要を他のキリスト者と率直に分かち合うことによっても神を愛することができます。初代教会のキリスト者たちはすぐに寄り集まって、愛にあふれた一つの霊的家族を形成しました。「信じる人々の群れは心と魂を一つにして、誰一人その持ち物を自分のものと言わず、一切を共有していた」(使徒4・32)。同じように、今日のキリスト者も、信頼と愛情と決意(コミットメント)をもって互いに関わり合うことにより神への愛を表現すべきです。

4 聖書

祈りにおいて、キリスト者は神に語り、神に耳を傾けます。聖書を読むことは、神に耳を傾けるもう一つの方法です。聖書は神のみことばであるという信仰をもって、定期的に聖書を読む時、神は、ご自身をよりはっきりと啓示し、キリスト者の神への想いと忠誠心を強めることがおできになります。また、キリスト者は、聖書を学びたいという積極的態度、聖霊に神の真理に従って自分の心を形成していただきたいという望みをもって聖書に近づくべきです。したがって、キリスト者は、聖書を定期的に、謙虚に、そして信仰をもって読むことによって神への愛を表現することができます。

5 お金

神を愛するもう一つの方法として、神の国のために自分の財源を使うことが挙げられます。神を愛するということの中には、全てを―お金や財産も含めて―神に明け渡すことも含まれています。キリスト者が神の国に役立つよう自分のお金を使う際の二つのはっきりした方法は、十一献金と施しです。十一献金というのは、自分の個人的収入の十分の一を教会に献げるという、キリスト者の伝統的習慣です。施しは、貧しい人と困窮している人々にお金を与えることです。キリスト者はキリストにおける自分の兄弟姉妹の経済的必要にも責任を持つべきです。お金を賢明にそして気前よく使うことは、神に対する献身的な愛を表現する具体的な一つの方法です。

6 時間の使用

人々は、自分のお金よりも時間の方をしばしば用心深く守ろうとします。自分の時間とエネルギーを神に献げることは、神を愛するもう一つの実際的な方法です。キリスト者は自分の自由な時間全てをレジャーや娯楽に使うべきではありません。自分の時間の一部はキリスト者としての奉仕にあてるべきです。それがキリストの体である教会や家庭における奉仕であろうと、あるいは非キリスト者に対する直接的な奉仕であろうとです。毎日の祈り、聖書を読むこと、他のキリスト者との兄弟的交わりも、キリスト者の生活のスケジュールの中で優先されなければなりません。もしキリスト者が、神に明け渡した時間を毎日のスケジュールの中に具体的な形で組み込んでいなければ、神を愛する重要な方法を軽視していることになります。

7 物事の決定

人が物事をどう決定するかによって、その人の価値観や、その人が大事にしていることを知ることができます。もし人が自活し独立していれば、その人はたぶん「私は何がしたいか、何をすれば一番楽しいか]と自らに問うことによって、物事を決定することでしょう。もし、人がもっぱら他の人々に依存しているならば、「あの人は私に何を望んでいるのだろうか」とその人は問うでしょう。神に自分の人生を全く明け渡したキリスト者であれば、「神は私に何を望んでおられるのだろうか。どうすれば神を最もお喜ばせすることができるだろうか」と問うでしょう。神を愛するということの中には、神のみ旨に従って物事を決定することも含まれているのです。

聖霊と忍耐

神を愛することの重要性と意味を理解している人にとっても、次の究極の問いには困ってしまうかもしれません。「一体どのようにすれば、私のように欠点だらけの人間が神にふさわしい方法で神を愛せるのだろうか」。私逹は神との関係において成長していく必要があることを忘れてはなりません。キリスト者は一日で神を全面的に愛せるようにはなれませんし、七週間の「聖霊による生活刷新セミナー」においても、八週間の「霊的成長コース」においてもそれは無理です。神を愛するということはキリスト者が一生の間、学んでいかなければならないプロセスなのです。神は人々に忍耐しておられますし、また、人々が自分自身に忍耐するよう求めておられます。

これは最も肝要なことですが、キリスト者は自分自身の努力によって神への愛を深めていくことはできません。たとえ努力が必要であるとしても、神への愛を深めていけるかどうかは、キリスト者の内部に住んでおられる神ご自身の霊の働きに対し、もっぱらキリスト者がどれだけ心を開いているかにかかっているのです。もしキリスト者が自分自身の力で、神を愛するという理想の生活をしようと試みるならば、その人はいずれ落胆、挫折、失望を味わうことになるでしょう。キリスト者は、聖霊が内部に住んでおられ、彼らの生活を変えるために働いておられることを信じなくてはなりません。神への愛を深めていくためには、キリスト者は日々、聖霊の力に頼ることを学ばなくてはならないのです。

訳:高浜武則