カトリック聖霊による刷新の公式サイト(https://ccrjapan.org)…
ちなみにこのコースの目次は次のとおりです。
・霊的成長コースの指導方法
第一部
第1週:神を愛する
第2週:キリスト者の愛
第3週:信仰
第4週:導き
第二部
第5週:この世とキリスト者共同体
第6週:肉の弱さに打ち勝つ
第7週:あやまちを改める
第8週:悪魔の働きに打ち勝つ
注:本文中に聖書の引用箇所があまりありませんが、それは、「役に立つ聖書箇所」が別にまとめられているからです(未訳出)。
第1週「神を愛する」:神を愛することの意味
多くのキリスト者は、神を愛することの意味が分かっていないがために、神を愛することを生活の中でどう位置付けて良いのか分からないでいます。よくある誤りとして、神を愛することを感情の体験―つまり、喜びにあふれた[宗教的高揚]を感じるか、あるいは神に対して常に「好感情」を持つこと―として捉えることが挙げられます。この見解を持つキリスト者には困難がつきものです。感情は変わりやすいからです。感情の高揚と低下を始終繰り返し、一貫して神を愛せないか、あるいは神を常に愛せない無力さから、慢性的な落胆と失望状態に落ち着くことになります。もう一つの誤りとして、神を愛することを、喜びのない厳しさをもって実行しなければならない、服従という厳格な義務であると捉えることが挙げられます。そう捉えるキリスト者にとって、神を愛することは、実質的に抽象的概念でしかありませんし、非人間的な義務としての掟でしかないのです。
これらの見方とは異なり、神への愛は、人格的なつながりにおいて表現され、具現されるものです。多くの現代人にとってこの考え方は非常に理解しがたいものです。なぜなら現代社会では、人格的で献身的なつながりを持つことに成功している例をほとんど見出せないからです。そのようなつながりとして最も一般的な例は夫と妻の関係です。もし、夫の愛が肯定的感情のみに左右されるならば、夫はたぶん結婚後よりも結婚前に、最も熱烈に妻を愛するでしょうし、妻への愛の度合いも日によって変化するに違いありません。また、人は自分の結婚を、義務として全うしなければならない一連の規則や責任として捉えることはできません。配偶者への愛は、非常に人格的で全てを包み込むものでなければなりません。要するに、結婚を固める愛は、人間的な愛ではなく、献身的な(コミットした)愛なのです。この愛の基盤は感情ではなく、自己を全く相手に与える決意にあります。この愛はまた人格的な愛であり、礼儀と規則を守ることよりも、一人の人間の全存在に対する深くて全面的なつながりでもあります。この関係における人格的側面には感情も含まれます。とはいっても、その関係は、感情を基盤にしているものではありません。
これと同じく、キリスト者の神に対する関係も、献身的で人格的な愛の関係であるべきです。その愛は献身的な愛です。つまり、堅い決意によって人を神に結びつける愛で、感情を伴ってもそれに左右されることのないものです。また、人格的な愛、つまり深いきずなによってその人の全存在と結び付ける愛でもあります。
キリスト者の神に対する関係と夫婦間の関係には一つの大きな違いがあります。それはキリスト者の相手が万物の創造主であるということです。人間は、神と対等な者として同じ土俵に立つことはできませんし、知恵と力において、神と人間との間には、人間と鳥あるいは虫けらとの間以上の開きがあります。偉大で、力があり、栄光にあふれ、聖なる神に対し私達は畏敬と従順の心でお応えすべきです。しかし、神の愛はその聖さと同じくらい測りしれないものです。神は私達に従順を強制なさらず、自由意志による従順を求めておられます。神は、私達が自分の体を「聖なるいけにえ」として捧げること(ローマ12・1)によって、私達の生活が完全に主ご自身を中心に営まれるように変えられることを求めておられます。
したがって、キリスト者は自分の全ての時間とお金と行動を、神に仕え、神に栄光を帰すために使うべきです。これは必ずしも、新しい車、きれいな服、〇〇への旅行、その他の願わしい物を排除しなければならないということではありません。しかしながら、これらの楽しみは基本的に、神のご計画の中で行われるべきであって、キリスト者自身の計画の中で行われるべきではありません。確かに神は、キリスト者の望んでいる楽しみをいくらかは与えてくださいます。しかし人々は、神をお喜ばせすることだけに関心を持つべきですし、また、彼ら自身を喜ばせることは主にお任せするべきです。人々は、創造主である神と献身的で人格的な愛の関係にあるとき、神が彼らの全ての必要を満たし多くの願いをかなえてくださるという確信を持つことができるのです。
Basic Christian Maturity