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第1週の1「神を愛することの重要性」

霊的成長コース』

すでに前世紀のことですが、四谷祈りの集いで8週間の成長コースを開催したときにベースになったのは、ミシガン州アンナーバーの「神の御言葉共同体」が作成した指導者用ガイドブック Basic Christian Maturity です。有志で翻訳したのですが、その翻訳原稿をもとに、故ペンケレシ神父様が未翻訳部分(教師への指示、小グループのテーマ等)を訳出して『キリスト者の霊的成熟のための基礎コース』という本を刊行されました。そもそもこの本のタイトルは私にとっては仮の訳で見直すつもりだったので、ここでは『霊的成長コース』に変更しています。

四谷祈りの集いで使っている「聖霊による生活刷新セミナー」のテキストも「神の御言葉共同体」が作成したものです。この「霊的成長コース」はとてもいい内容なので、第一部(第1週から第4週)の教えをご紹介します。比較的量が多いので、各週の教えを2、3回に分け、毎週金曜日に各週の教えの初回分を掲載することにします。

まず、第1週の「神を愛する」を3回に分けてご紹介します。この週の目標は、1)神を愛することの重要性とその意味を伝える、2)人々が生活の中で神を第一にするよう動機づける、です。

第1週「神を愛する」:神を愛することの重要性

霊的成長コースは、神を愛することについての講話から始まります。それは、神を愛することがキリスト教の教えにおいて中心的な位置を占めているからです。神を愛することは、キリスト教生活の基本です。隣人愛を含め、他の全てのことは、神を熱烈に求めることによってあふれ出て来るべきものなのです。しかしながら、熱心なキリスト者でさえも、この真実を十分に理解するまでに至っていないことがよくあります。キリスト者が神への愛を本来あるべき生活の中心に据え直そうとするならば、手助けが必要となります。

目標と理想

キリスト者の生活において、目標というものが一体どんな役割を果たすのかを正しく理解していないがために、時として、キリスト者が神を愛することの重要性を無視してしまうことがあります。神は、目標をめざす生物として人間を創造なさいました。人は必然的に自分自身に目標を課し、自分のエネルギーをその目標達成のために注ぐのです。人は物質的富や安楽を、また、良い評判や技術・知識を、あるいは、権力や業績を追求するのです。人間の目標として典型的なものに、十分に食べたり飲んだりすること、安楽に暮らすこと、学校を無事卒業すること、試験で満点を取ること、上役に気に入られること、レジャー、レクレーション、読書、家族との団らんやその他の楽しみ事に自由な時間を使うことなどがあります。これらの目標はそれ自体、非常な満足感を与えるものであるかのように思えることがよくあるのですが、人が一番幸せだと感じるのは、あらゆる目標が統合されて、一つの理想が形成されている時です。個々の目標はそのような理想によって結び合わされ、理想を構成するものとして位置づけられることになります。たとえば、「成功者」であるということは一般的な理想であって、二台の車、幸福な家庭、住み心地よい家、よい教育を受けた子供、傷のない評判、地域での影響力などを持つといった具体的な目標も含まれていることでしょう。これらの目標が全て、完全な理想の一貫を成す時、個々の目標それ自体の満足感とは比べものにならないほどの魅力を帯びることになります。実際のところ、神の望まれる理想的な生き方を私達が達成できるように、神は私達に目標を設定する能力を与えてくださったのです。

人間に対する神の理想は、最初の、そして重要な掟、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22・37)に包含されています。キリスト者の生活における目標は皆、この包括的な掟に沿うものでなければなりません。キリスト者が食べ、飲み、働き、遊び、祈り、他人を愛するのは、神を愛するという理想に生きるためなのです。この包括的な理想のために果たす役割を持ってこそ、これらの目標(行い)はそれぞれの意味と価値を帯びることになります。

人間の不幸の源泉と、神との分離の原因は、人間が神の理想をなおざりにしていることにあります。人間は神の理想の代わりに自分自身の理想を打ち立ててしまうのです。「成功」や名声、安楽を熱望する人々がいます。知識・科学・政治権力・社会革命の追求や専門的技術の習得に向けてあらゆる目標を設定する人々が大勢います。また、自分の子供が自分よりも幸福になり、より良い教育を受け、より成功することを願って、子供のために生きている人々もいます。これらの理想はどれも人間に永遠の幸福をもたらすことはできません。

これらの理想の多くは、キリスト者としての理想―神を第一に、かつ最も愛すること―の下に位置付けられる目標として扱われるときにのみ、その正当性を帯びることになります。それなのに、神の理想を追い求める人はめったにいないのです。神のご計画に従っていない人々は大まかに三つのタイプに分けることができます。一つのタイプとして、キリスト教を全く無視し、自分勝手な理想を追求する人々がいます。彼らの生活は、神の望まれる生活とは正反対です。もう一つのタイプとして、もっとも微妙な過ちを犯す人々がいます。彼らは神を愛することを、自分自身で選んだ他の包括的な理想―たとえば、安楽や成功あるいは革命など―の下に位置付けるのです。彼らはキリスト者ですが、彼らにとってキリスト教信仰は、多くの活動や立場の一つであり、何か他のことに役立つものでしかありません。そのために、彼らは、神の望まれる生活を十分に送ることができないのです。

恐らく一番多いタイプは、包括的な理想を何も持ちえていない人々でしょう。理想のない人間は、てんでばらばらな目標を追求します。キリスト教信仰、社会活動、専門家としての成功、経済的安定、田舎に家を持つこと、これら全てが関心の的となり、力を注ぎこまれる対象となるため、互いに競い争うことになります。統合された理想に欠ける生活は混乱と矛盾の生活でしかありません。しかも、神の人間に対する望みに反するものです。神は人間が一つの統合された理想―心と思いと精神を尽くして神を愛し、他の全てのことはこの包括的なビジョンの次に置くこと―を持って生きることを強く望んでおられます。

手段と目的

キリスト者がまことの理想に従って生活できないでいるのは、たいがい、神を愛することそれ自体を目的とせず、むしろ手段であると捉えているからです。たとえば多くのキリスト者は神への愛を自己実現(自己の必要を満たす)のための道として捉える誤りを犯しています。人が熱心なキリスト者になるのは、たいていの場合、神以外には満たすことのできない欠乏感を生活の中に見出すからです。この動機は正当であり、全く容認できるものです。確かに、「聖霊による生活刷新セミナー」においては、神のご自分の民に対する新しい生命の約東が意図的に強調されました。しかし、キリスト者が信仰において成長するにつれて、神の憐れみの愛に対する感謝の心は、何かもっと豊かで深いものへと発展していかなければなりません。キリスト者は、神の偉大さ、栄光、聖さを認識できるようになるべきですし、神を愛することは全人類の究極の目的であるというはっきりとした認識を持って生活するべきです。そのように、感謝の心が愛に発展すること―神を手段と見ることから目的と見るようになること―は全てのキリスト者の人生において起こらなければなりません。しかしながら、神のして下さったことを神に感謝する態度から、神を神であるがゆえに礼拝する態度へと決して移行しないキリスト者は多いのです。

自己実現のための手段として神を捉える誤りを犯しているキリスト者が多くいるとするならば、神への愛を隣人愛の次におくことによって誤りを犯しているキリスト者もいます。そういった人々は、神が自分達の自己実現のための手段以上の方であることは分かっているのですが、神を隣人の自己実現のための手段でもあるとぐらいにしか捉えていないので、真理を十分につかみきれていないのです。そのような人々にとってキリスト者としての生活の中心にあるのは、祈りではなく、福音宣教や社会活動ですし、キリスト者としての祈りの中心にあるのは、賛美と感謝ではなく、執り成しなのです。確かに、人々が必要としていることは多大であり、神もキリスト者が人々の必要に強い関心を持つように招いでおられます。人は他人を愛さずに神を愛することはできません(第1ヨハネ4・20)。なぜなら、神を愛することは神と同じ姿をもった者に変えられていくことですし(第2コリント3・18)、神は憐れみ深く恵みに富む (出エジプト34・5~6)お方だからです。しかし神への愛が優先します。キリスト者は神を神として愛さなくてはなりません。もっぱら、他人を愛する力を得るためや、執り成しの祈りを神に聞き入れていただくために、神を愛してはならないのです。「あなたの神である主を愛しなさい」は、第一の最大の掟なのです。第二の掟『隣人を愛すること』は最初の掟に似ています。しかし、第二の掟は、神を愛するようにとの招きのあとに常に続くものであることを知らなければなりません。

Basic Christian Maturity

訳:高浜武則