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賜物の行使―知識の言葉、癒し、奇跡、預言

『今、ここにある奇跡』の第6章をご紹介します。

第6章 賜物の行使-知識の言葉、癒し、奇跡、預言

コリントの信徒への手紙一第12章第4節から第12節で聖パウロは明言しています。
「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」

聖霊はご自分が望む者に霊的賜物をお与えになります。これらの賜物を行使する主な目的は、キリストの体を建て上げ、あるいは啓発するためです。聖霊はこれらの賜物を奉仕やミニストリーのために個人個人に惜しげなく寛大にお与えになります。「カリスマ」はギリシア語の「カリスマタ」から来た言葉で、主が選ばれた人になら誰にでも惜しげなく与えられる恩典を意味します。それは、それを受け取った人が自分で得たというものでもなければ、その人に相応しいというものでもありません。イエスは、ルカによる福音書第11章第13節で言っておられます。
「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

ある土曜日の午後、祈りの集いが終わりに近づいた頃、私は心の中に語り掛ける言葉を聞きました。「私の息子よ、私は今、この中の排尿が困難な者を癒している。」円陣を組んでいる人々を見回すとそこには7人がおり、私だけが男性でした。私は心の中で主に言いました。「主よ、よくお分かりになっていると思いますが、皆さんは全員が女性です。とてもそんなことを口にするわけにはいきません。」すると主は言われました。「私の息子よ、私に従ってくれないか」。私はそのことを口にすることをまだ非常にためらっていました。それを言うべきかどうか心の中で葛藤していました。「誰もそれは自分のことだと言わなかったとしたら、私はまるで馬鹿みたいではないか。それに誰かが気を悪くしたとしたら」と私は心の中で考えました。私は誰かが注目の的になることも非常にためらっていました。私はグループの人々にもう一つ歌を歌うようお願いし、それが終わると、もう一つ歌うようお願いしました。私は心臓の鼓動が普段よりも早くなっているのを感じましたが、とうとう、これ以上、心に受けた言葉を抑えることができなくなってしまいました。ためらいは大きかったものの私は言いました。「主は、ここにいる誰かで、排尿が困難な者を癒しておられます。円陣の真ん中に出てください。完全に癒されるよう、按手して祈りますから。」私は「排尿」という言葉を口にするのを本当に躊躇しました。ヘレンが、自分は尿道に炎症があり、痛みのために排尿が困難であると言いながら前に出ました。ヘレンが前に出るとすぐに私の不安は解消しました。私は、主がこの知識の言葉を与えてくださったことにとても興奮し、(心の中で)主をほめたたえていました。ヘレンのために祈った数分後、ヘレンはトイレに行くために席をはずしました。彼女は、満面の笑顔でトイレから出て来ると、“何の痛みもなく普通にできた”ことを話してくれました。ヘレンはまさにその日のうちに尿道炎から完全に癒されたのです。その日以来、彼らに必要のある場合はいつでも、私は知識の言葉を、知恵の言葉、預言、異言、癒し、奇跡、霊の識別、その他の霊的賜物とともに使っています。私が置かれている状況下で、これらの賜物の行使のための、いわば受け皿となるために自分自身を解き放つことを求められているときも使っています。

ある晩、私は癒しの集会を開催するために、ニューヨーク・クイーンズにあるトレンティンの聖ニコラス教会にいました。私が「大いなる癒し主、イエス」について教えていると、一人の男性が、一人の女性と、たぶん20代初めの二人の若い女の子にショットガンを向けているビジョンが目を開けたままの状態で見えました。このビジョンが一体何を意味するのか心の中で主に尋ねたところ、この男性が妻と二人の娘を殺すと脅したのだという思いを与えられました。「彼は、三人にしたことについて恥ずかしさと罪責感とを感じており、自分自身を赦すことができないでいる。私が彼を赦していること、私の平安を受けるために自分自身を赦す必要があることを彼に伝えてほしい」という言葉を私は心の中で主からいただきました。さらに私は、神の恵みにより、この男性は自分の家族にしようとした邪悪なことをしなかったという思いも与えられました。私はこのビジョンを集まっていた人々に話し、そして、この男性に、心の癒しのために共に祈りたいので、通路に出て来るよう頼みました。誰一人立ち上がりませんでした。もう一度説明しましたが、反応がありませんでした。それで私は、「あなたがどこにいるのか分かっています。どうか私にあなたをつかまえさせないでください」と言いました。それでも誰も動きませんでした。そこで私は、「イエスと歩きます。イエスと毎日歩きます。イエスとすべての道を歩きます」という歌を歌いながら、教会の入り口に向かって通路を歩き始めました。教会の中は、ピンが落ちても聞こえるのではないかと思えるほどに静まりかえっていました。信徒席の前の方の列に座っている友人がいましたが、彼らの顔に“ぞっとした表情”を読み取ることができました。私は、教会の入り口から数えて二番目の列の真横で立ち止まりました。そして列の真ん中に座っている男性を指さしました。「兄弟、あなたですね?」彼は立ち上がり、「そうです。私です」と答えました。それで私は、主から受けた預言つまりメッセージを彼に話し始めました。「あなたが言ったことはすべて本当です」と、その男性は涙を流しながら言いました。彼の心の癒し、そして心理的な癒しのために彼に向けて手を伸ばし、祈るよう私は集まっている人々に頼みました。

癒しの集会が終わると私の友人たちが近寄って来て、私が祭壇のもとから教会の入り口に向かって歩き出したときは、どうなるものかと思ったと話してくれました。「本当に勇気のいることをやったものだ。もし間違っていったら、とても恥ずかしい思いをしたところだったよ」と彼らは言いました。「聖霊は決して間違いを犯されないよ。あの男性の頭上にちらつく光が見えたのさ。それで彼のことだとわかったのだよ」と私は彼らを安心させました。あの後、知識の言葉の賜物をとおして、主は私に人々の名前を与えてくださったので、私はその名前を大声で言わざるを得ず、その名前を持つ人々に立ち上がるように要請しました。これらの人々が立っていたとき、全部で15人から20人ほどだったでしょうか、主は、一人一人それぞれのために一つあるいは複数のメッセージあるいは預言を私に与えてくださいました。その都度、その場で彼らは自分に与えられたメッセージを確証しました。彼ら一人一人に主が私に言ってほしいことを私の“内的自分”が聞いて、私は単にそれをそのまま繰り返しただけでした。私は彼らを誰一人知りませんでしたし、彼らに会ったのは初めてでした。イザヤの預言第43章第1節で、主である神は言っておられます。
「ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」

そうです。本当に主は、私たちを名前で知っており、私たちについてあらゆることを、髪の毛の数でさえ、知っておられます(マタイによる福音書第10章第30節参照)。

あの晩、私は主の非常に強力な臨在を本当に感じました。補足として、お話したいと思いますが、およそ1年後、私はこの男性、つまり、自分の家族をショットガンで脅した男性に、ニュージャージィの東ブランズウィックで開催されたフィリピン・カトリック・カリスマ的刷新祈りの共同体連盟の地域大会で再会しました。彼は、「ボブ兄弟、私には平安があり、家族との関係もこれ以上は望めないほどに良好なのですよ。私は今では別人で、教会にほぼ毎日行くようになりましたし、聖書を毎日読むようになりました」と、笑顔で言いました。(先ほどの)これらの賜物は、神の愛、神の臨在、神の力の現れなのです。適切な識別と、聖霊の油注ぎがあれば、これらの賜物は、神の栄光のために人々の生活を変えることができます。疑いなく、聖霊の賜物は、この世界の武器全てを合体させたよりも力強く、有効です。なぜなら、これらの賜物はもともと聖なるものですから。この世に、神の力よりも強い力はありません。なぜなら神の力には限りがないからです。神の力は、神に属していないこの世のどんな力をも強めることも破壊することもできます。この世に神の力に匹敵できる力はありません。私は経験をとおして学んだのですが、聖霊の賜物を使うためには、私は完全に神に服従し、私をとおして神が顕わしたいと思っておられる神の力に信頼を置かなければなりません。私たちは、時宜に適っていようがいるまいが、神の促し、導きに従わなければなりません。私たちが主において本当に生き生きできるのは、神に完全に服従するときだけです。ある人が言いました。「奇跡的なこと(the miraculous)を体験するために、私たちは進んで愚かなこと(the ridiculous)をしなければなりません」と。私はこの知恵のある言葉を決して忘れることができません。問われているのは、私たちが誰であるかではなく、主がどなたであるかです。問われているのは、私たちについてではなく、王の王、主の主、アルファでありオメガである方、初めであり終わりである方、世界の救い主、私たちの主イエス・キリストについてなのです。

トレンティンの聖ニコラス教会で私が目撃し、体験した聖霊の油注ぎは、私が開催し、話す特権と栄誉を受けた、癒しの大会やクルセード、ワークショップ、セミナー、小教区での奉仕、黙想会、刷新の日(一日黙想会)、大会、総会など世界中の多くの場所で何度も繰り返されました。多くの場合、その油注ぎは、もっと力強く、もっと甚大でした。神は主権者であり、その力は想像を絶するからです。

1987年のことですが、ルルドという成人女性が夫、兄弟姉妹、子供と祈りの集いにやって来ました。彼女は、乳癌を患っており、それは肺にまで広がっていると言いました。医者は彼女に対してあと半年の命であると宣言しました。彼女は抗癌治療を受けていました。それで私たちは、それからの三か月間というもの、祈りの集いで毎回、主が彼女を完全に癒してくださるよう、抗癌治療が彼女の治療に当たって効果的であるよう、そして副作用が起こらないよう、私たちは彼女に按手して祈りました。ある日、彼女は、もう癌はどこにも見当たらないと医者が宣言したという嬉しい証し(praise reports)を携えて来ました。彼女が癒されたというニュースは野火のように広がりました。その結果、より多くの人々が祈りの集いに参加し始めました(ちなみに、ルルドは今日に至るまで癌とは無縁のままです。)奇跡と癒しがもっと頻繁に起こるようになりました。セバスチャン・ドレイク神父とトム・アルカイア神父(ストックトンの聖ガートルード小教区のカルメル会司祭)も毎週、その集いに来るようになりました。その結果、ストックトンの聖ルカ教会の祈りの集い同様、より多くの人々がその集いに来るようになりました。

ある日、私は、職場の同僚で、グレッグ(Greg)という名前の私と同じ会計監査官が、いつもは社交的(Gregarious)なタイプの男なのに(洒落をお許しください)、その日はとてももの静かなことに気づきました。私はすぐに何かがおかしいとわかりました。彼がいつもの彼ではないことが一目瞭然だったからです。私は、コーヒー休憩時に彼に近づき、何か悪いところでもあるのかいと尋ねたところ、彼は、母親が昨日、合衆国に戻るための飛行機をロンドンの空港で待っていた間に脳卒中になったというのです。そして今、入院しているというのです。「君と僕とで、今ここで彼女のために祈ってもいいかい?」と両手を彼に伸ばしながら聞きました。多少のためらいはあったものの、彼が私の手をつかんだので、私たちは祈りました。彼のお母さんのために祈っているとき、主がこの婦人のビジョンを見せてくださったと私は彼に言いました。私はこの婦人がどのような外見をしているのか(髪の色と髪型、彼女が着ていた服の色、彼女が使っていたハンドバックの種類)、そのビジョンを具体的に説明しました。グレッグが言うには、私は彼女のお母さんのことを説明しているとのことでした。「君が私の母をビジョンで見たなんて驚きだよ。母さんに会ったことがないのに、君の説明はとても正確だったよ」とグレッグは言いました。「グレッグ、これは神なのだよ。僕たちが祈っているとき神が君にこう言ったよ。『息子よ、私はあなたの母親を癒しているので心配しないでください。私の名によって彼女のために祈り続けなさい。私の名はイエスです。私は息子であるあなたを愛しています』と。」数日後、グレッグは声を弾ませて、彼のお母さんが病院から帰され、今は元気にしていると私に教えてくれました。「実のところ、母は今、カリフォルニアへの飛行機を再手配しているのだよ」と、グレッグはうれしそうに報告してくれました。この経験があったがために、私はそれまで以上に強い情熱とより期待する信仰とをもって人々とともに祈り始めるようになりました。私がこのような者であるにもかかわらず、知識の言葉、知恵の言葉、癒し、奇跡、預言その他の霊的賜物を私の生活で非常に活発にしてくださっていることを私は主にいくら感謝しても感謝し切れないように思います。

私はこれまでの年月を経て一つの習慣を身に付けました。どこにいても、常に異言で祈る習慣で、ほとんどの場合、声には出しません。この習慣は、聖霊が私に賜ってくださった恵みの一つであると私は信じています。私にとってこの習慣は、気が散ったときに、私の心と思いを主に向けるために最も効果的な方法の一つだとも感じています。ある日、私は食料雑貨を買うよう妻に頼まれました。私は食料雑貨用のカートをつかむと、声には出さずに異言で祈り始めました。私が農産物コーナーに向かって歩いていると、主が私の心に語られました。「息子ロバーよ、あなたから見て2時の方向にいる婦人が見えるか?」「はい、主よ、見えますとも。」「行って、私の聖名において話しかけなさい」と主から短い指示が出ました。「何について話すのですか?」「彼女に話す言葉は私が与えよう。」その婦人は積んだジャガイモを見ていました。そこで私は、積んだジャガイモを見ながら、彼女の横に立ちました。数分後、私は、彼女と会話を始めるために、「ジャガイモもトマトもほとんど毎週のごとく値上がりする一方のようですね」と言いました。彼女は賛同して「あなたの言うことは正しいと思います」と言いました。他の商品の値段についても彼女と話した後、私は自己紹介をしたところ、彼女は名前を教えてくれました。私は、「個人的な質問をしても構わないでしょうか?」と尋ねました。彼女は、「いいえ、どのような質問をお考えなのですか?」と尋ね返しました。「最近、あなたの人生で起こったことで、何か、祈りを使えそうだと思えるものがありますか」と私は躊躇することなく尋ねました。

突然、彼女は私の目をまっすぐに見ました。彼女のほほには涙が流れ落ち始めていました。「いいですか。私は夫を三か月前に亡くしたのです。とてもつらいです。私は頭が混乱し、意気消沈しています。取り乱しているのだと思います。夫なしでは寂しくてたまりません。私たち夫婦はとても仲がよかったのです。どうしたらよいのかわかりません。」「それは大変お気の毒です。でももしお望みであれば、私はあなたと一緒にお祈りができますし、私たちは、主があなたに慰めと平安を与えてくださるよう主に願い求めることができますが、すべてはあなた次第です」と私は即座に答えました。

「そうですねえ。もしあなたが構わないのであれば、私も構いません。」そこで私たちは、積んだジャガイモとトマトの上で手をつなぎ、祈り始めました。祈っていると、再び、主が私の心に話しかけてきました。「彼女への私の愛は終わらないと彼女に言いなさい。彼女の夫は私のもとにいるので喜びなさい、喜んでいなさいと彼女に言いなさい。私は彼女について計画を持っている。私の彼女への愛に信頼してほしいと私が望んでいることを彼女に知らせなさい。これからは、私が彼女の父、彼女の母、彼女の姉妹、彼女の夫、彼女の兄弟、彼女の盾、彼女の保護者、彼女のいのちである。」次に私は、格子縞のシャツを着、テンガロンハットを被り、カウボーイブーツを履いた男性のビジョンを与えられました。このビジョンを彼女に伝えると、「あなたは夫のことを話しているのです。これは信じがたいことです」と彼女は満面の笑顔で言いました。「まあ、慰めになる言葉を話してくださってありがとう。私はその言葉を聞くことを本当にひどく必要としていました。すごいわ。本当に信じがたいです。度肝を抜かれました。」「主が善い方であり、あなたを愛しておられることについて、主に賛美し、感謝することをただ続けてください。主はあなたの置かれている状況を正確に知っておられ、あなたに援助の手を差し伸べておられます。いいですか、主はあなたに夢中です。主はご自分のすべての子どもたちに夢中なのです」と言って彼女を励ましました。

その結果、この婦人の態度が、“沈鬱”から“陽気”な様相へと劇的に変化してしまいました。彼女は私にいつまでも感謝し続けていました。それに、この経験は、主の救い、愛し、癒す力に対する私の信仰をとてつもなく強めてくれました。

聖霊の賜物はいつでもどこでも、主の御国を建て上げ、主の民を主のもとに引き寄せるために必要とされる時と場所において自由に使われるべきである、それが神の御旨であると私は信じています。

『今、ここにある奇跡』(2015年6月 四谷祈りの集い発行)