• 思いがけず聖霊の風の恵みを受けたカトリック信徒が、聖霊刷新とは何か、Jacky のニックネームで具体的に説明するサイトです。テーマは、預言的執り成し、預言、いやし、悪霊からの解放、イスラエル、アメリカ、メシアニックジュー、エキュメニズム、マリア崇敬、聖マリアの汚れなき御心の勝利、第二の聖霊降臨など多岐にわたります。聖霊刷新関連の本もたくさん紹介しています。

聖霊刷新の光と影

「聖霊刷新」への誤解に対して弁明する従来の状況から、「聖霊刷新」における影の部分に光を当てる状況への転換を目指し、なぜ特有の誤り(例えば、聖霊による洗礼を受けた者がそうでない者に対してプライドを持つこと、自分たちこそ真の信仰者であると思い込むこと、カリスマにばかり注目することなど)が時として起こるのか、それを理解する上で有益と思われる考えを、前回の「聖霊による刷新の歴史的展開」に引き続き、神学者ピ-タ-・ホッケン神父の『栄光と恥(THE GLORY AND THE SHAME )』から抜き出し、その概略をご紹介します。

<神が人間の歴史に介入するときの原則>

原則1:「神は常に全体の利益を念頭に置いて、特定の人々に働きかける」 

神の祝福を具体的な形で体験する人々が常々感じる誘惑は、その恵みが主として彼ら自身のために与えられていると思ってしまうことです。歴史的な観点を欠くクリスチャンほど、そのような誤解をする危険性が大きいと言えます。「聖霊による刷新の歴史的展開」からもわかるように、聖霊の介入は、その一つひとつが常に全体のご計画の中で行われており、神の全体的な計画や目的と無関係の介入など一つもありません。カトリックカリスマ刷新(聖霊刷新)は、ペンテコステ運動やプロテスタント諸教会におけるカリスマ刷新とも無関係ではありませんし、カトリック教会や全世界に対する神のご計画とも決して無関係ではないのです。

ですから、カリスマ刷新は主として個人の霊的刷新や霊的成長のために与えられていると考えるなら、それは、神の目的を自分自身と結び付けようとする自己中心的な思いによるものです。神は、何よりもまず、ご自身とキリストのために働かれます。御父の御子に対する愛は、御父の全ての働きを特徴づけるものです。そうでない働きは、神にふさわしくないと言えるでしょう。聖霊は、何よりもまず、教会を洗い清めてキリストの花嫁としてふさわしいものとするために注がれているのです。

カリスマ刷新は決して、今の教会に成り代わるものでもなければ、真の教会でもなければ、排他的なエリ-トの集団でもありません。もしそういう傾向が見られるとしたら、それはカリスマ刷新を生んだ聖霊のお働きではなく、人間の肉の思いから生まれてきたものです。聖霊の満たしを恵みの中心に据えるカリスマ刷新は、全世界の利益のために、神がキリストの体全体に与えてくださった贈り物であると理解されるべきです。

原則2:「神の約束と警告は、同じ人々(民)に対して与えられる」

聖霊による洗礼の恵みは、神の約束を強く意識させます。実際、イエスは聖霊の注ぎを「私の父の約束」と呼ばれました。約束は歓迎しても、不従順な者に対して警告される災難を私たちはあまり歓迎しませんし、忘れてしまいがちです。とは言うものの、聖霊の注ぎを受けた者は、教会内の聖でない部分に以前より敏感になり、刷新や改革の仕事へと駆り立てられていきます。ところが、自分自身の霊的刷新の体験が所属教会で受け入れられなかったり、カリスマ刷新そのものが拒否されたり排斥されたりするなどの痛ましい体験をすることによって(これは、カリスマ刷新に熱心な側の未熟さ、愚かさによっても起こりますが)、カリスマ刷新に属するクリスチャン(カリスマ的クリスチャン)が、それまでの伝統的な教会を出て、ペンテコステ教会や超教派教会に移ることがあります。

そのようなクリスチャンは、伝統的教会に対して否定的で、反感さえ持っている場合があります。その一方で、伝統的教会に属するカリスマ的クリスチャンは、同じ教会に対して肯定的で忠実であり、報恩の念さえ持っています。相反する態度がクリスチャンの間で共存しているのです。ですから、カトリックや伝統的プロテスタント教会のカリスマ的クリスチャンが、自分たちの教会を神の裁きの対象として考えてみたこともないということはあり得ますし、その一方で、超教派教会のクリスチャンが、これらの教会を、もはや神の憐れみの対象ではなく、単に神の怒りの対象としてしか見ていないということもあり得ます。

しかし、カトリックや伝統的プロテスタント教会の人々が、自分たちの罪を見て悔い改めようともせず、また、教会の遺産を永遠に失うことのない財産として考えているなら、それは聖書的ではありませんし、逆に、「あなた方は罪を犯し、恵みを失った。私たちは罪を犯していないし、新たに遺産を受ける者となった」と、たとえば超教派の人々が、カトリックや伝統的プロテスタント教会の人々に対して言うなら、それも聖書的ではありません。なぜなら、そのような言い方は、「神の約束と警告は、同じ民(人々)に与えられる」という原則に反するからです。

この原則は、預言者の言葉にだけでなく、旧約聖書全般に見られることです。イスラエルの民に対する神からのメッセ-ジは両刃の剣です。信仰と従順は、神の約束により、祝福をもたらしますが、不信仰と不従順は、神の呪いを呼び、破滅と破壊をもたらします。この神とイスラエルの民との契約は、レビ記26章、申命記28章にまとめられています。この契約がこの世の通常の契約と大きく異なるのは、契約を破った後の権利の復権、回復が約束されていることです。旧約聖書にはシナイ山の契約の更新がいくつか記されています(出エジプト記34章1節、10節、エレミア書31章参照)。申命記30章にも、28章の祝福と呪いのリストとは別に、回復の可能性が記されています。預言書においても、イスラエルとユダの不信仰に対する非難の後に回復の約束が続きます(アモス書9章13-15節、エレミア書3章14-18節など)。

ですから、諸教会におけるカリスマ刷新が預言者としての役割を果たさず、カリスマ刷新自身と所属教会の罪を謙虚に見出して嘆くことがないならば、その働きは弱いものでしかないと言えます。旧約の預言者に代表される、神との契約に忠実な者たちは、自分たちのことをエリ-トであるとも、不忠実な王や祭司の代わりになる者であるとも考えませんでした。むしろ、自らも選民の一人であると自覚し、選民の罪を激しく嘆いたのです。

以上で、ホッケン神父による説明の概略紹介を終わります。原則1に戻りますが、ヨハネ・パウロ二世も、「多くのカリスマの第一の主要な目的は、それを受けた者たちの個人的な聖化ではなくて、他者への奉仕と教会の福利である」と指摘しておられます。聖霊刷新において「聖霊による洗礼」という神からの祝福を受けた私たちは、神を信じ神に従順である限り祝福を奪われることはありませんが、不信仰で不従順な場合は祝福を奪われ裁きの対象ともなり得ることを原則2は教えています。聖霊による洗礼を受けた私たちも絶えざる回心へと招かれているのです。