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いかに主の有益な働き手となるか

ボブ・カントン氏の『今、ここにある奇跡』12章の後半をご紹介します(拙訳)。

1 私たちはイエスを生活の中心に据えなければならない。

私たちは主と親密で個人的な関係を持つべきです。ヨハネ15章4-5節でイエスは言っておられます。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

私たちは行くところどこにでもイエスを“運ぶ”だけでなく、私たちの前面に、頭上に、横に、後ろに、全面に主を立てる必要があります。

その次に、私たちは、主に飢え渇く人々に“主を差し出す”準備を常にする必要があります。聖パウロは第二コリント2章15節で言っています。「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです」と。

私たちがどこにいようとも、人々は私たちのうちにイエスを見るだけでなく、イエスの“よい香り”を私たちのうちに嗅ぐことができるべきです。さらに言えば、私たちの周りの人々は、私たちのうちに天の王国を“感じたり、垣間見たり”できるべきです。

2 「聖霊に満たされなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされなさい。」(エフェソ5:18)

イエスはずば抜けて優秀な「奇跡の働き手」でした。なぜなら主は聖霊に満たされていたからです。主は聖霊に満たされていただけでなく、聖霊の油注ぎを受け、聖霊に導かれ、聖霊に支配されていました。そして主は、聖霊の力においてミニストリーをされたのです。

聖霊に満たされるということは、私たちの人生のすべての瞬間、私たちの心にイエスがいるということです。ヨハネ7章37-38節にこう書いています。「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」

聖霊は私たちの慰め主、私たちを聖化される方、私たちの仲介者、私たちの教師、私たちの導き手です。聖霊は全ての真理の源であり、イエスに栄光を与え、イエスを現し、イエスを証しします。

3 聖三位一体との絶え間ない交わり

これは、祈りを通して、心に主のことばを聴くことを通して、聖書を読むことを通して、そして最も重要なこととして、赦しの秘跡やご聖体などの秘跡を通して可能になります。私たちが主との間のその“通信回線”を利用するならば、それはとてつもなく私たちの助けになると私は信じています。

第一テサロニケ5章17節でパウロは、「絶えず祈りなさい」と言っています。祈りは、主の御前で私たちの請願を口に出すだけでなく、私たちが主のことばを聞くための方法でもあるべきです。

イエスは、御自分の羊はご自分の声を聞くと言っておられます。

「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」(ヨハネ10:3) 善い羊飼いの声を聞き分けることができるための最善の方法は、定期的に主と交わり、主を礼拝することだと私は信じています。

4 主に、そして聖霊の促しにいつも従いなさい。

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ14:15-16) 

麻痺した人々、目の見えない人々、耳の聞こえない人々、あるいは不治の病にかかっている人々のために祈るよう、聖霊が私を促すとき、私は彼らの置かれた状況を“見よう”とはしないで、彼らの癒しを通して神の栄光が現されることを求めます。

主に従おうするならば、私たちは、完全に主に服従し、主とともに“水”の上を歩くことを求められます。比較的最近のことですが、癒しのクルセードを行うため、私はペルーのリマにいました。歩行器を使っていた20代半ばの女性がいました。私は、彼女に近づき彼女の癒しのために祈るように主からの促しを受けました。何のために祈ってほしいかと私に聞かれたとき、彼女は、以前、交通事故に遭い、耐え難いほどの苦しみのうちにあると教えてくれました。さらに、痛みのために長時間立つことも
座ることもできないと教えてくれました。彼女の体は首から下が硬直していると言うのです。実際のところ、交通事故以来、首に固定器(ブレイス)をつけていました。

「私の息子よ、ただちに、私の聖名により彼女の体の癒しを宣言しなさい。今、私が彼女を癒していると彼女に伝えなさい」と主が私の心に語り掛けられるのが聞こえました。私は主の促しにその場で直ちに従い、彼女に手を置きました。彼女はしばらくの間、聖霊における安息に入りました。立ち上がったとき、彼女は自分の体をあらゆる方向に動かしていました。痛みが完全に無くなったと言いました。その翌日、彼女は戻って来て、あたかも何も起こらなかったかのように、すでに普通に歩くことができるようになったので、歩行器も首の固定器(ブレイス)もはずしてしまったと証ししてくれました。

私に対する主のことばについて、私は主と議論しませんでした。私は、自分の評判を気にしたり、人々がどう考えるだろうかとか何を言うだろうかと心配したりしませんでした。私はただ、主のことばに従い、主が私にするようにと言われたことをしました。するとその若い女性はその場ですぐに癒されたのです。

「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」(出エジプト記19:5)

5 主の栄光のためにあなたを激しく使っていただくよう主に願いなさい。

イエスはマタイ7章7節で言われます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と。

出エジプト記33章18-19節で、神のみことばは宣言しています。「モーセが、『どうか、あなたの栄光をお示しください』と言うと、主は言われた。『わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ』」と。

主のより偉大な栄光と栄誉のためにあなたを使ってくださるよう、あなたが心から主に願い求めるとき、いつでも使っていただけるよう準備していなさい。と言うのも、主は、あなたが準備できているとき、いつでも準備できておられるからです。

「神の国は言葉ではなく力にあるのですから。」(第一コリント4:20)

主は神の御国を拡大するためであれば、誰であっても大いに喜んで使ってくださいます。イエスはルカ11章13節で言っておられます。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。

あなたはあるいは私は奇跡の働き手になることができるでしょうか。この問いに対する鳴り響く答えは、「はい、なれます!」だと私は信じます。フィリピ4章13節で聖パウロは言っています。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と。