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死者をよみがえらせる方法

”Bringing Heaven Into Hell” の第4章から

賛美の働きについての驚くべき例として、イエスが死んだラザロをよみがえさせられたときのことが挙げられます。イエスはラザロが病気であると知らされても、彼のところにすぐに行こうとはなさいませんでした。イエスは彼が死ぬまでお待ちになって、「もう一度、ユダヤに行こう」(ヨハネ11:7)と弟子たちに言われたのです。弟子たちは行きたくありませんでした。彼らが最後にそこにいたとき、ユダヤ人たちはイエスを殺そうとしたのですから。葬式に出るのにどうして命を賭けなくてはならないのでしょう。

その時、イエスは次のように言われました。それは、弟子たちには奇妙なこととして聞こえたに違いありません。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。・・・」(ヨハネ11:14、15)。イエスはラザロが死んでよかったと思いました。他の者たちは誰もがそれを悲劇だと考えましたが、イエスは別の観点からよかったと思ったのです。

ラザロの住んでいたベタニアに彼らが到着してみると、遺族のほか、友人たち、多くの著名なユダヤ人指導者たちが死者を弔うために集まって来ていました。人々は嘆き悲しんだり、涙を流したりはしていましたが、賛美や感謝はしていませんでした。彼らの中にはイエスを見ると、怒って、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(ヨハネ11:37)と言う者もいました。

イエスは彼らの反応に失望し、「どこに葬ったのか」と言われました。彼らがイエスを案内すると、イエスは「その石を取り除きなさい」と言われました。

そこまでは、あなたも私もイエスのなさったようにたぶんすることができたでしょう。私たちだって、葬式に出て遺族を慰めるくらいのことはできたでしょうし、「神を愛する者たちには万事が益となるように共に働く」と聖書に書いてあることを信じていれば、これはすべて益になるように起こったことなのだと、遺族に伝えようとするくらいの努力はしていたかもしれないでしょう。でも、それ以上のことは恐らくできなかったのではないでしょうか。たとえ、遺族の者に、「あなたは、自分はクリスチャンであり、自分の神は何でもできると言うが、今、何かしてくださるように神に頼んでみてくれてはどうですか」と挑まれたとしても。

イエスはどうされましたか。神に助けを求められましたか。「父よ、お願いですから私の言うことを聞いてください。今、私は大変な問題を抱えており、助けを必要としているのです」と懇願されましたか。

いいえ、イエスは、その場に立ったまま、「父よ、私の願いを聞き入れてくださり、また、いつも私の願いを聞いてくださり、感謝いたします」と言われました。何かしてくださるよう神に頼むことはなさらず、すでにことがなされたことを神に感謝しました。イエスは、「問題がもう問題ではなくなったことを感謝いたします」という言い方をされたのです。

墓の回りでは、とても沢山の人々が嘆き悲しんでいました。弟子たちは捕まって殺されはしないかと心配してあたりを見回していました。イエスは、問題を抱えていない唯一の人でした。神に懇願することは何もありませんでした。彼はただ、「父よ、私の言うことをいつも聞いてくださり、ありがとうございます」と言われたあと、墓に向かって、「ラザロ、出て来なさい!」と命じられたのです。

なぜ、私たちも同じようにできないのでしょうか。イエスは後になって次のように弟子たちに言われたのではなかったでしょうか。

「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる」(ヨハネ14:12、13)。

ここは聖書の中でも私たちがしばしば心にひっかかりを感じる部分です。私は今まで死者を生き返らせたことがありませんし、あなたもないでしょう。私たちは日常生活でのちょっとした問題にさえてこずることがあります。でも、私たちは問題に対処していけるとイエスは言われましたし、どのようにすればよいか手本も示してくださいました。イエスはただ、「父よ、私の願いを聞き入れてくださり感謝いたします」とだけ言われたのです。

このことから、賛美と感謝は、神に対する私の信頼と信仰の究極的な表現たるものだということ、そして、すべてのことについて神に感謝することを学ぶ道程のどこかで、神の力がもっと私たちの生活の中で現実的なものになるのだということを私は確信しています。カギは、イエスが言われた言葉にあるのではありません。開いた棺桶の前に立って、「父よ、私の願いを聞き入れてくださり感謝いたします」と何度も何度も、声の調子を変えてみながら言うことは私にもできるでしょうが、そうしたからといって死体を起こすことはできないでしょう。カギは、イエスがどう言われたかにではなく、イエスの心から神の心へと真っ直ぐに流れ出た何かにあるのです。その何かが私たちの心から流れ出ることができるならば、開け放たれた窓から日光が入り込むと、部屋を陽気と光で満たすことになるのと同じくらいの確実さで、神の愛は私たちの生活と環境に解き放たれるに違いないのです。

イエスのごとく神を賛美することを私たちはどう学べばよいのでしょうか。様々な始め方があるのですが、まずどこからか始めなくてはなりません。私は、動かないオンボロ車のような、小さなことについて神に感謝することから始めました。最初は、ちょっと馬鹿らしく思えるかもしれませんが、聖書は、「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(エフェソ5:20)と言っています。「あらゆること」には、オンボロ車、焦げたト-スト、壊れて使えない道具など、すべてを含んでいるのです。

感謝し始めた頃、本気で感謝したことは半分もありませんでしたが、感謝をささげることは、神が私に望まれていることを私が従順に行なっていることを外的に示す行為であるとも言えました。それは私にとって最初のステップであり、多くの結果を見るまでにはかなりの時間がかかりました。変化はゆっくりとしたものでした。「感謝します」と言うとき、少しずつですが、本気で言えるようになり、以前だったら必ず、私の心をかき乱したり、みじめにしていたことに対して本当にうれしくなっている自分に少しずつ気づくようになりました。それに、私に起こるすべてのことを神が取り計っておられるということを私はますます確信するようになっていましたし、私を愛しておられることを示されるために、神がそれらの状況を私の生活にもたらされたことを信じることはそれほど難しいことではありませんでした。

困難な状況にある人々に分かち合いをすることや、彼らの困難な状況を彼らに代わって神に感謝することを始めるにつれて、私の確信はますます強められていきました。信仰の表現としての賛美は、神に懇願するよりもはるかに顕著な結果をもたらしたのです。賛美は時々しなければならないというだけのものではないことが分かったのです。賛美は礼拝、神への愛の本当の表現であると、聖書は何度も何度も述べています。

そこまでの理解にたどり着くまでには、いくつかの問題に直面しなくてはなりませんでした。時として、神を賛美しても全く何にもならないことがありました。賛美し始めた時よりも状況が悪化したかに見え、私は落ち込んでしまうのでした。私の賛美の言葉は、なんとかそれを口にすることができたとしても、むなしく意味を伴っていませんでした。

何が悪いのでしょうか。私は賛美の新しい方法を試してみました。賛美をやめたくなっても、意志の力で賛美し続けてみたのです。それでもまだ突破口は見出せませんでした。それでとうとう私は、自分に喜びがなく信仰も足りないことを神に感謝し、何が悪いのか示してくださいとお願いしました。意志の力をもってしても、賛美の言葉を繰り返しても、問題の解決にこれ以上近づけないところまで私が達したのだということを神は示してくださいました。問題は、私が言ったり行ったりしたことにあったわけでもなければ、それをどう言ったり行ったりしたかにあったわけでもないのです。私が問題だったのです。

イエスが単に、「父よ、私の言うことを聞き入れてくださりありがとうございます」と言われたとき、神の力が直ちにイエスを通して解き放たれました。なぜなら、イエスと御父との間には(妨げとなるものが)何もなかったからです。イエスの心の中に、父との関係の妨げとなるものは何もなかったのです。彼らは一つでした。私たちは、イエスが彼を信じるすべての者のために祈られたことを知っています。「あなたがくださった栄光をわたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(ヨハネ17:22、23)。

従順を表す行為として神を賛美するのは良いことですが、それはまだ初歩の段階でしかありません。遅かれ早かれ、私たちの賛美が行き詰まる時が来ます。それは大抵の場合、何かが私たちに必要なのだということを示しています。値は高く、支払いにはたびたび痛みが伴います。私たちの心の中にあって、神との関係を妨げているものを捨てなくてはならないのです。報酬はイエスと一つになることですが、私たち人間は手放すことにいつも抵抗をするのです。

ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。そして、「わたしは、掟をみな、子供の時から守ってきました」と言った。

これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。

イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(ルカ18:18、22~24)。

問題は、その人の所有している財産にではなく、財産に対するその人の愛着にありました。イエスはその人の心にあるものを知っておられ、その人と神との関係を妨げていることを指摘されたのです。イエスのために捨てようとしないものは、それが何であれ、明らかに、イエスとの関係よりも重要であると私たちがみなしているものなのです。次のような質問を自分にしてみるとよいでしょう。

「私の生活の中に、神のために捨てようと、あるいは神に感謝しようとしていないものがあるでしょうか。あるいはそのような人がいるでしょうか。私が赦そうとしていないこと、あるいは人がいるでしょうか」。

答えがはいであるなら、そのことあるいはその人が、私たちと神との間に立ちはだかっているのです。

かつてある婦人が、お金、健康、家族のことなど、抱えている多くの問題について私に相談を持ちかけてきました。「私はこの混乱した状態を神にお委ねしたいのです。神に感謝しようともしてみましたが、状況は悪くなる一方です。どうしたらこの行き詰まった状態から抜け出すことができるのか教えてください」。

「神があなたに望んでおられると知りつつも、あなた自身はしたくないと思っていることがありますか」と私は尋ねました。

彼女は顔を赤らめて言いました。「赦せないことが一つだけあります。それについてはふれられたくありません」。

「それこそ、何かが起こることを期待する前に、神があなたにしてほしいと望んでおられることですよ」。

彼女は泣いていましたが、断固とした表情は変わっていませんでした。「でしたら、私はこのまま苦しみ続けることになるのですね。私にはとても赦せませんもの」。

ほとんどのクリスチャンはなかなか上手に本当の問題を隠すか、さもなければ否定します。エレミヤは人間の性質の一面を知っていて、次のように書きました。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは主なるわたしである。・・・」(エレミヤ17:9、10)。

ダビデはとても正直だったので、「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください、わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください」(詩編 139:23、24)と言うことができました。

あなたがそのように祈るなら、神は応えてくださいます。あなたが隠そうとしていることに目を向けさせてくださいます。神からの示しは、私たちが重荷と感じている苦しい状況の中にしばしば見出すことができます。私たちはその状況のために神に感謝することもできるのです。その状況は私たちを罰するためではなく、ご自分にもっと引き寄せるためのものだからです。

私たちが真実を知っているなら、それを避けて通るべきではありません。「わたしが心に悪事を見ているなら、主は聞いてくださらないでしょう」(詩編:66:18)とダビデは言いました。私たちが神に秘密にしておくものは何でも罪です。私たちがそれに固執する限り、神は私たちに耳を傾けることができません。罪の唯一の治療法は、神の赦しです。それを求めることによって、私たちは、創造主との関係を築く上で出発点となった基本に戻ることができます。その基本というのは、私たちが神に罪を告白し明け渡すなら、神は私たちを赦してくださるということです。

生きている限り、私は神の赦しに寄りすがらなくてはなりません。そのことを私は以前にも増して感じるようになっていますし、これから先、もっと寄りすがっていきたいと思っています。あなたは何度も何度も神に赦しを請うのを恐れたり、あるいは恥ずかしいと思ったりしていませんか。神と駆け引きをしており、そしていつか神がお怒りになるのではないかとか、あるいはあなたを赦すことにうんざりされるのではないかと思っていませんか。それは謙遜ではありません。あなたがどれほど神の赦しを必要としているか気づかないのはプライドのせいです。

ある日、私は波が足元に打ち寄せるなかを大洋に向かって立っていました。小さな男の子が水の中に走って行き、おもちゃのバケツを水で縁まで一杯にしました。そして浜辺に戻って、砂を掘って作った穴の中にその水を注ぎ込みました。その子は行きつ戻りつしていましたが、突如として私は、神の赦しは大洋と同じくらい広大なのだということに気がついたのです。私たちは小さなバケツを何度も何度も水中に突っ込むことができますが、水を汲み出したところには直ちに水が入って来て元の状態に戻ってしまいます。大洋からどれだけ水を汲み出しても、大洋はいつまでも満水のままです。そして、砂の穴に何杯もの水をバケツから注いだとしても、水はじきになくなり、また汲んでこなくてはならなくなります。

父としての神の心は、ご自分の子供たちがご自分から赦しを受け取るためにやって来るとき、喜び躍ります。神はいやいや赦すことはなさいません。「ほら、またやらかしたな。いつになったらわかるんだ!」とも言われません。そうではなく、私たちがやって来るのをご覧になるときはいつでも、「子よ、戻って来てくれて私はうれしい。私はあなたを赦します。そして愛しています」と言われるのです。

罪を赦し、忘れてくださる神へ立ち返ることは、神と私たちとの交わりを保つための命綱のようなものです。私たちが自分の過ちを正直に認め、神に明け渡すたびに、キリストは私たちの生活における、その弱い部分に対する支配力を強めることができます。私たちの中で起こっている変化はゆっくりとしたものであるかもしれませんし、急激なものであるかもしれませんが、それが起こっているということは確かです。

私たちは自分自身の力で自己を変えることはできません。だからこそ、パウロはエフェソの人々に、「・・・むしろ霊に満たされなさい」(エフェソ5:18)と言ったのです。なぜなら、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制である」(ガラテヤ5:22、23)からです。これらの性質は自分で造り上げることのできないものです。

霊に満たされるということはどういうことでしょうか。瞬間的な出来事であると考えるのではなく、一つのプロセスであると考えるなら分かりやすいかもしれません。パウロが、「満たされなさい」と言ったとき、彼は英語には存在しない語形を使いました。ギリシア語では、「絶えず、満たされ続けていなさい」とでもいう意味です。これは、流れ出ている水で満たされているホ-スを描写する場合なら使うであろう、継続的現在時制の表現なのです。ホ-スはその中を水が流れ続けているときだけ、水で満たされた状態にあります。蛇口が閉まるか、ホ-スが何かで詰まれば、もうホ-スは水で満たされた状態にはありません。それは空であるか、よどんだ水を保持しているかのどちらかです。

あなたも私もホ-スみたいな存在で、霊に絶えず満たされ続けていなさいと命じられています。その霊は、じっとしておられるわけではなく、私たちの中を流れておられるのです。蛇口を開けることは、キリストへの服従という、私たちの継続的な態度です。キリストと私たちの間に立ちはだかるものは何でも、そのホ-スを詰まらせてしまいます。神と私たちとの間のコミュニケ-ション用の通路を開いておくことが、どれほど重要であるか分かりましたか。そして、私たちが神の絶えざる赦しにどれほど頼っているか理解できましたか。

今の私が5年前の自分とは違うこと、そして私と神との関係も当時とは違っていることに私は気づいています。私がいくらかでも成長し、成熟したならば、そして、聖霊によってもっと満たされ続けていくことができるよう、私の生活の中の新たな領域を神に明け渡してきたならば幸いです。私が進んで空しくされることを望むとき、そして新しい領域において成長していきたいと望むときにのみ、神は私を満たすことができるのです。

ですから、あなたと私は、柔軟性・拡張性のあるホ-スのような存在です。それは、私たちと神との関係が深まり成長するにつれて、もっと聖霊を保持しておくことができるようになるのです。ホ-スは詰まることがありますが、私たちも同じです。あなたがちょうど聖霊に満たされているところであったとしても、そのすぐあとで、カッとなることがあれば、捨てる必要があるものをあなたが神に示されても、拒むこともあります。その時、あなたは聖霊に満たされ、聖霊が溢れ出ている状態にあるのでしょうか。それともホ-スは詰まっているのでしょうか。

聖霊に自己を明け渡す特別な経験をした人のことを「聖霊に満たされたクリスチャン」と呼ぶ人々がいます。その見方によれば、「聖霊に満たされた」人は完全に近いと思われています。これほど真実とかけ離れていることはありません。聖霊に満たされるために開かれてはいたが、詰まってしまった人は、誰よりもいっしょに生活しがたく、理解しがたい人です。神との親しい関係を味わったあとで、神から遠ざかるなら、怒りっぽく、惨めになるのは当たり前のことです。聖霊は内的平安をもたらしますが、その平安が去ってしまうと、まわりの何事に対しても、あるいは誰に対しても、否定的に振る舞うようになるのです。

「私は聖霊に満たされています(I am Spirit-filled)」ではなく、「私は今、聖霊に満たされているところです(I am now being filled with the Holy Spirit) 」という言い方をするなら、聖霊の働きをより正確に表現していることになります。パウロは、聖霊ご自身に注意深く導かれて、ギリシア語の動詞に継続的現在時制の形を用いたのです。そうすることによって、初期のクリスチャンたちに、継続的に満たされ続ける必要性を印象づけたのです。満たしは一度きりの体験ではなく、私たちと神との関係の状態に左右される、継続的プロセスなのです。私たちは自分の失敗を告白し、神の赦しを求めることを継続的に進んで行おうとしているでしょうか。そうすることによって、私たちは障害を取り除かれ、霊にさらに満たされた状態になっていくのです。

イエスは継続的に聖霊に満たされておられました。イエスと御父と聖霊は一つでした。私たちとイエスとの関係を表すために、イエスが使われたイメ-ジは鮮やかでした。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)。枝は木につながっていなければ成長して実を結ぶことができません。常に、命を与える樹液がその中を流れていなければなりません。これは完全な依存をイメ-ジしています。樹液、生命線は、聖霊です。私たちが自分の人生および自分自身を主に捧げれば捧げるほど、私たちが目指すべき、イエス・キリストとの一致を体験することができるのです。

本当の賛美はキリストと一つになることによって沸き上がって来ますし、人生におけるあらゆることを喜びと感謝に変えるフィルタ-の働きをします。あなたは心の中に賛美のフィルタ-を持っている状態を想像できますか。あなたはもはや痛みや問題や悲劇を見ることがなくなります。そういうものは、神がご自分の栄光を現される絶好の機会としてのみ見るようになるのです。

イエスはそのようなお方でした。舌だけではなく、その存在の隅々までが賛美に溢れていましたので、イエスはベタニアでの葬儀で、「・・・わたしがその場に居合わせなかったのはあなたがたにとってよかった。あなたが信じるようになるためである。・・・」と言うことがおできになったのです。

あなたの生活の中に、死んで埋められている部分、破壊され荒廃している部分はありませんか。それはもしかしたら、あなたの結婚生活や、仕事、あるいは才能かもしれません。

「それを元どおりにしよう(復活させよう)としても無駄です。それは、もう永久に失われてしまったのです」とあなたは言います。あなたは間違っています。

  嘆き悲しむのはもうおやめなさい。むしろ、「こんなことになってよかった。神の栄光を現すために起きたのだ」と言いなさい。今は復活のとき。「ラザロよ、出て来なさい!」

Bringing Heaven Into Hell

拙訳

コメント一覧

Jacky2022年3月17日 5:32 AM /

賛美で世界的に有名なマーリン・キャロザース師の最高傑作の本の一章