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第二バチカン公会議と聖霊刷新

第二バチカン公会議とカトリック・カリスマ的刷新(聖霊刷新)

ピーター・ホッケン神父の最新作”Pentecost and Parousia”(ペンテコステと再臨)では、第二バチカン公会議とカトリック・カリスマ的刷新(CCR)との密接な関係が具体的に説明されています。

彼は、仮に第二バチカン公会議がなかったならば、ペンテコステ運動やプロテスタント・カリスマ的刷新を起因とする運動がカトリック教会内で受け入れられることはなかったと説明しています。公会議が聖霊刷新のために果たした大きな役割が四つあるので、翻訳と私のコメントとで順次ご紹介します。

一番目は、「カリスマについての教え」です。

公会議の間、教会内におけるカリスマについて活発な議論が展開されました。二人の主要な主唱者がいて、一人はスーネンス枢機卿でした。彼は、いつの時代においてもカリスマは通常の教会生活に属しており、歓迎されるべきものであると主張しました。もう一人の主要な主唱者はアーネスト・ルフィニ枢機卿で、彼は、カリスマは使徒の時代に属するもので、今日、期待すべきものではないと主張しました。結局、スーネンス枢機卿の主張が司教たちの支持を受け、それが教会憲章12に結実しました。

「神の聖なる民は、キリストが果たした預言職にも参加する。それは、とくに信仰と愛の生活を通してキリストについて生きたあかしを広め、賛美の供え物、すなわち神の名をたたえる唇の果実を神にささげることによって行われる(ヘブライ13:15参照)。・・・・・
 さらに、同じ聖霊は、秘跡と奉仕職を通して神の民を聖化し、導き、諸徳をもって飾るだけでなく、自分のたまものを「望むままに一人ひとりに分け与えつつ」(1コリント12:11)、すべての序列の信者に特別な恵みを授ける。「一人ひとりに霊の働きが現れるのは、全体の益となるためである」(1コリント12:7)と書き記されているように、聖霊はこの恵みによって、教会の刷新とその発展のために役立つ種々の仕事と職務に適する者とし、またそれを引き受ける用意がある者とする。それらのカリスマは、特に顕著なもの、またより単純でより広く与えられるものも、すべてまず教会の必要に適応したもの、有益なものであるから、感謝と喜びをもって受けなければならない。しかし、特別なたまものを軽々しく求めたり、またそれによる使徒的活動の効果を過度に期待してはならない。しかも、それらのたまものの正真性と秩序ある行使を判断するのは教会を治める人々に属している。霊を消すことではなく、すべてを試し、よいものを保つことはとくに彼らの権限である(1テサロニケ5:12,19-21参照)。」(第二バチカン公会議公文書 改訂公式訳から引用)

このような文書が、聖霊刷新(CCR)が誕生した1967年よりも前にすでに作成されていたとは驚きです。

二番目は、「聖書がすべてのカトリック信徒に広く開かれたこと」です。

公会議は、反宗教革命のカトリック教会の立場を特徴づけていた、聖書への防御的態度に意図的に終止符を打つとともに、聖書を熱心に読むことは本質的にプロテスタント的であり、カトリック的とは言えないのではないかという疑惑を捨てました。ですから公会議は、「聖書に近づく門戸は、キリスト信者に広く開かれていなければならない」と「神の啓示に関する教義憲章22」で教えているのです。

すべての信者に対して神のみことばが制限なく開かれることがなかったなら、カトリック教会が聖霊刷新を受け入れることは困難だったでしょう。

私たちは今、自由に聖書を読み、四谷の祈りの集いで遠慮することなく聖書を読み上げていますが、これは第二バチカン公会議のおかげです。プロテスタントの人々にとってはごく普通のことなのですが・・・。

三番目は、「信徒についての教え」です

教会憲章の豊かな教えの中でも「第4章 信徒について」は、カトリック聖霊刷新にとって非常な重要性と関連性があります。

公会議は、洗礼を受けた者は皆「キリストのからだに合体され、神の民に組み込まれ、自分たちのあり方に従って、キリストの祭司職、預言職、王職に参与する者となった」と教えています。ですから、「信徒の使徒職は教会の救いの使命そのものへの参与」なのです。

この教えにより、カトリック教会は、聖霊による洗礼を受けた信徒が教会内で発揮する新しい役割をずっと簡単に受け入れることができたのです。聖霊による洗礼を受けた者はより深い祈りとキリストとの一致を求めますが、刷新の経験は、すべての者が聖性へと招かれているという教えを確証するものとなりました。

祈りの集いでは、司祭がいても、信徒が賛美リーダーを担当することが多いのですが、これも第二バチカン公会議の成果であると言えます。

四番目は、「エキュメニカル運動の受け入れ」です

第二バチカン公会議で、エキュメニズムに関する教令を公布することにより、カトリック教会は、エキュメニカル運動を正式に受け入れ、イエス・キリストのからだの目に見える完全な一致を回復することをその目標としています。

「今日、世界の多くの地域で、多くの人が聖霊の恵みの息吹により、祈りとことばと行動によって、イエス・キリストの望む一致の完成に到達するために努力している」と。

しかも、公会議は、カトリックの公の教えの中で初めて、他のキリスト教信仰共同体でも救いのために聖霊が働かれていると次のように教えました。

「事実キリストの霊は、これらの教会と共同体(注:分かれた諸教会と諸共同体)を救いの手段として使うことを拒否しないのであって、これらの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恵みと真理の充満そのものに由来する」と。

この認識がなければ、カトリック教会は、上からだけでなく他のキリスト者を通してもたらされた、新しい生命の流れ(CCR)を受け入れることができなかったことでしょう。

つまり、ペンテコステ運動やプロテスタント・カリスマ的刷新を起因とする運動がカトリック教会内で受け入れたのは、それがカトリック内で始まる前に、第二バチカン公会議でエキュメニカル運動の受け入れが決定されていたからということになります。

今回の記事の結論を言うと、「聖霊による洗礼の満たし」という共通の体験により、ペンテコステ教会、プロテスタント諸教会、カトリック教会で満たしを受けた人々は、簡単に一致することができますが、これは神様のご計画のうちに第二バチカン公会議が開催された結果であるということになります。

言い換えれば、第二バチカン公会議が開かれていなかったならば、異言や預言が与えられ、聖書を自由に読め、司祭ではなく信徒が普通にリーダーで、プロテスタントの方が参加しているような現在のような各地の「祈りの集い」は、決して存在していなかったということになるのです。

私たちは「神に感謝!」と言うしかありません。