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第二回エルサレム会議

1998年3月29日付カトリック新聞は、「第二次世界大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)に関して長く待たれていた文書を教皇庁が3月16日に発表し、ナチスによるユダヤ人迫害に抵抗できなかったキリスト者に代わって悔い改めを表明した。同文書は、数世紀にわたった教会の反ユダヤ的姿勢が、約600万人のユダヤ人が犠牲になったナチスの迫害政策に対してキリスト者が精神的にも具体的にも抵抗しなかったことの一因となった可能性があると認めた」と伝えました。

『教会が犯したユダヤ人迫害の真実』(ミカエル・ブラウン著、横山 隆 監訳、マルコーシュ・パブリケーション発行)の中で著者は、「私は、全世界的にクリスチャンたちが過去あるいは現在、ユダヤ人に対して犯した罪を悔い改めるならば、ユダヤ人がイスラエルの過去あるいは現在の、イエスに対する罪を悔い改める日が速やかに来ると確信しています。唯一、血を洗い流すことができるとすれば、それは教会による悔い改めの涙なのです」と述べています。

悔い改めなしに、和解と一致がもたらされることはあり得ません。このたび、カトリック教会が反ユダヤ主義を悔い改めたことは、ユダヤ人の心をよりキリスト教に開かせることになるでしょう。そしてそれは、メシアニック・ジューと異邦人キリスト教徒とのエキュメニズムを推進するための大きな一歩となり得るでしょう。

ピーター・ホッケン神父の説明によれば、今世紀における聖霊の大きな働きは、初代教会とは全く逆の順序で起こっています。第一回エルサレム公会議では、異邦人キリスト教徒にユダヤ教の律法を強制しないことが決定されました(使徒言行録第15章参照)。

当時のユダヤ人キリスト教徒は、イエス・キリストをユダヤ人のメシアと信じ、別の宗教に改宗した意識はありませんでしたが、いつの間にか、ユダヤ人であると救われないというおかしな主張がなされるようになり、反ユダヤ主義が生まれました。

ところが、最近になって異邦人とユダヤ人が和解し原点に帰る動きが始まり、1997年の9月23日スイスのエメランで、「第二回エルサレム会議に向けて」という国際会議がメシアニック・ジュー、異邦人キリスト教徒合同で開かれました。

いつか、第二回エルサレム会議が本当に開かれることになるように思います。そしてそれは、第一回エルサレム会議と逆の内容の会議になるのではないでしょうか。

その会議で、異邦人キリスト教徒にユダヤ教を強制することになるというのではありません。イエス・キリストを信じながらもユダヤ教の伝統を守るメシアニック・ジューが、異邦人キリスト教徒と一つになり、メシアニック・ジューを通して大いなる祝福が私たち異邦人キリスト教徒にも注がれるようになるのではないかということです。

「イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」(エゼキエル36:22-24)。

「わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国となることなく、二度と二つの王国に別れることはない。彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない。わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める。そして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(エゼキエル37:21-23)。

長い間、神はユダヤ人に背を向けておられましたが、今や神はユダヤ人に御顔を向け始めておられます。終わりの時代にイスラエルが再建されるという聖書の預言(エゼキエル書36,37章、エレミヤ書30,31章など参照)どおり、1948年イスラエルが建国され、イスラエルは、死語となっていたヘブライ語さえ復活させました。やがて1900年ぶりにメシアニック・ジューの共同体がイスラエル国内に誕生し、そして1998年5月にはイスラエル建国50周年を迎えました。

「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。
 その日、エルサレムにはメギド平野におけるハダド・リモンの嘆きのように大きな嘆きが起こる。大地は嘆く。各氏族は各氏族だけで、ダビデの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、ナタンの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、レビの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、シムイの氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、その他の氏族はそれぞれの氏族だけで、その女たちは女たちだけで嘆く」(ゼカリヤ書12章)。

異邦人キリスト教徒が反ユダヤ主義を悔い改めない限り、ユダヤ人が悔い改めてキリスト教を受け入れることはないでしょうし、ユダヤ人が悔い改めてイエス・キリストを受け入れない限り、イエス・キリストが再臨することはないでしょう。私たちはカトリック教会の一員として、反ユダヤ主義を悔い改め、ユダヤ人が悔い改めるよう祈るべきだと私は思います。そうすれば、神の働きは早められるに違いありません。