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カトリックとプロテスタントとの一致への大きな一歩

カトリックの哲学者ピーター・クリフトの『エキュメニカル・ジハード(Ecumenical Jihad)』から学んだ「サタンの戦略」を先日、ご紹介しましたが、その結論は、次のようなものでした。

<危機に対する解決方法>

社会の堕落を解決する方法はただ一つ。そして、それは、2つの部分で成り立っています。

第1原理:社会秩序の基盤は、道徳である。

第2原理:道徳の基盤は、宗教である。

回心なしに人々や社会の救いはあり得ません。しかし、本当の道徳律なしに回心はあり得ません。従って、サタンは、道徳律を弱めようと執拗に攻撃を加えているのです。

ピーター・クリフトによれば、この唯一の解決策の障害となっているものは二つあり、その一つは、社会と宗教との分離で、もう一つは、キリスト教界内および宗教間の分裂・対立であるということです。

実際、非キリスト者に対して福音宣教をするときに、神の愛を教えるキリスト教諸教会が互いに分裂していることは大きな躓き(つまづき)になっているといえます。

1999年3月14日付のリバイバル新聞は、一面に「聖書に基づいた一致の重要性」という記事を掲載しながら、別のページで『プロテスタントとカトリックの団結ですか?』(クリス・モモ著、ICM出版)という新刊書の紹介を行いました。その中で、カトリック信徒でも驚くような記述がカトリックの教えとして紹介されていました。「カトリック教会の外には救いはない」、「マリアへの献身のない者は誰でも天国に入ることはできない」、「我々教皇は、この地上において全能なる神の地位を占める者である」などなど。

一般的にプロテスタントの人々は、カトリックについての正確な情報ではなく、世俗的な歪曲された情報をもとにカトリック批判を展開しています(たとえば、西暦2000年を大聖年と定めたカトリック教会は、一定の条件を満たせば、罪を赦すと発表したという驚くべき誤解)。従って、彼らに正しい情報を提供することが先決です。彼らを批判するだけでは、何も築き上げることができません。彼らにカトリックに対する多くの誤解があるとしても、イエス・キリストを愛するという点で一致さえしていれば、さらなる一致を進めることが可能となるはずだからです。

1999年当時、私はリバイバル新聞とHAZAH(ハーザー)という月刊誌の定期購読者でしたが、HAZAHは、「新聞の見張り人」という記事の中で、「読者にカトリック信徒がいるとは思いませんでした。カトリック・カリスマの教会を取材したいので、カトリックの方ご連絡ください」という呼びかけをしていました。これはまさに千載一遇のチャンスでした。この機会を逃したら次の機会はないと言えるほどのものでした。カトリックのことなど全く眼中になかったHAZAH編集部が初めてカトリックに少し心を開いたのです。

私は当時、聖霊刷新から遠ざかっていましたが、HAZAH編集部への情報提供にあわせ、HAZAHと同じグループが発行しているリバイバル新聞の上述の記事に対して、「カトリックが異端であるとしたら、聖霊刷新がカトリックに起こった理由を説明できない」という趣旨の長い手紙を送りました。私の他にも情報提供した人が何人かいたようですが、それらの情報提供をきっかけに、HAZAH編集部は、「四谷の祈りの集い」を取材し、6月号で画期的な特集を組みました。見出しは、「カトリックの聖霊刷新運動-カトリックとの一致はあるのか、日本に見る聖霊による刷新の働き」というものでした。

HAZAH 表紙

その記事は、『プロテスタントとカトリックの団結ですか?』という本の内容も取り上げた上で、「・・・というわけで、教理・神学の問題では、問題を残すようだが、本誌の取材でも明らかなように、カトリックの聖霊刷新運動は紛れもなく聖霊の働きである。これは厳粛な事実だ。ということで、聖霊が降ってしまっているのに、私たちがカトリックを異教、異端とは呼べない」と結論づけ、「カトリックの聖霊刷新運動は、教会一致の観点からも大きな一石を投じている。波紋は大きい」と結びました。

これは日本における教会一致に向けての大きな一歩となりました。なぜなら、当初、カトリック教会を異端視し、例外的にカトリック・カリスマ教会だけは認めてもいいかもしれないという態度を取っていたプロテスタント・ペンテコステ派の人々が、カトリック・カリスマ教会というものが存在しないことを知った上で、カトリックの聖霊刷新を神からのものであると認めたということは、カトリック教会そのものを異端ではないと断定したことになるからです。

リバイバル新聞(週刊)もその後変わりました。この新聞は、「ペンテコステの日から」というシリーズを一面に掲載し始めたのですが、1999年6月6日、13日には、初めてカトリック信徒の体験談を掲載しました。しかも、13日の記事では、カトリック新聞が取り上げた「聖霊の翼にのって御父のもとにひとつになろう」という、教会内の諸運動・使徒職団体の出会いと交わりと分ち合いの集いについての記事と同内容の記事を、「カリスマ・カトリックの団体が初の総会」という見出しで大きく取り上げました。

カトリックとプロテスタント(あるいは他宗教)との相違点に注目するか、一致点に注目するかで、プロテスタント(あるいは他宗教)に対する見方は大きく変わってくるでしょう。批判的になることもできれば、友好的になることもできます。たとえどんなに違いがあるとしても、最も重要な掟、「神を愛する」という点で一致している限り、さらなる一致への希望はあります。

例えば、プロテスタントの人々は、死者のために祈ることが理解できません。聖書が教えていないと理解しているからです。そのため、煉獄の存在も信じていません。しかし、死者のために祈ることは、マカバイ記二(12:43-46)が教えています。カトリックの聖書理解がおかしいのではなく、聖書が異なるから理解が異なっているに過ぎません。

次に他宗教についてですが、カトリックは、ユダヤ教に対して誇ることはできません。聖書は、ローマ人への手紙第11章で言っています。

「野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」

「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」

現在(注:1990年代のこと)、イエス・キリストを救い主と信じるユダヤ人(メシアニック・ジュー)が少なくとも数万人いるといわれ、その数は急増しています。イスラエル建国以来、聖書の預言は成就しつつあります。いつの日か、イスラエルが全体として回心し神に立ち返ることになると聖書は預言しています。

聖書をじっくり読めば、いつの日にか、諸教会が一致し、イスラエル全体が神に立ち返ることは明白です。そう信じることができれば、少なくとも、プロテスタントの人々については、将来一致するはずの兄弟としてみなすことができますし、さらには、同じアブラハムを父祖とするユダヤ教徒も同じくいつの日にか一致するはずの兄弟としてみなすことができるのではないでしょうか。

ピーター・クリフト氏は言っています。

「宗教間戦争の時代は終わり、宗教戦争の時代が始まろうとしている。この戦争は、全宗教とそうでないものとの戦争である。第一次世界宗教戦争が我々の上に降りかかっている」と。

もし、この戦争に神が超自然的に介入されるとしたら、何らかの方法で、堕落した人類の倫理規範(道徳律)の立て直しをはかられるだろうと私は考えています。なぜなら、倫理規範なしに回心はなく、回心なしに救いはないからです。