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『十字架の神秘』(安田貞治著、平成8年緑地社発行)にすばらしい文章を見つけたのでご紹介します。
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「それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です』。そのときから、この弟子はイエズスの母を自分の家に引き取った」(ヨハネ19:27)。
わたしは若いころからカトリックの司祭としてこの聖書の言葉を引用して、何回となく人びとに、聖母がわたしたちの母であると語ってきたのである。多くの人はそれを聞いて一応うなずくことがあっても、それはそれとして通り過ごしたであろう。今日、あらためて聖書の言葉を読むにつれて、より深い意義に感動をおぼえるが、これを信仰の真理として受け取って、二千年前のヨハネ個人の出来事のように、わたし自身が信仰をもって受け取らなければならない。聖母の意義を感じていない者は、それほど宗教的意義があるものとして受け取ってはいないであろう。
教会がキリストの神秘的身体であるとすれば、キリストはその頭であり、わたしたちがその肢体として結ばれている。自然の形態でも頭を産んだ女は当然その肢体をも次つぎと産むのである。だからわたしたちを産んだその婦人を母と呼ぶのである。聖母は、今もキリストの神秘体的肢体を産むのであれば、母たる真理に適合する。罪人であるわたしたちを、新しくキリストの神秘体として世の終わりまで産むことは、ある意味で苦しみの連続性を思わせるのである。人祖エバに対して神は「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む」(創世記3:16)と言って、聖母の前じるしを告げているようだ。神秘体の頭であるキリストを産んだ母は、彼に愛された弟子をも産むのである。
この弟子は、そのときから「イエズスの母を自分の家に引き取った」とされているが、彼の霊魂は神の家となって、主の母を受け入れて信仰したのである。イエズスの言葉は、この真理に適合する信仰をつくるものであって、彼の愛はすべてを与え、母さえもわたしたちに与えるのである。単なる自然の出来事のように見せかけてはいるが、神の聖霊の働きによって、霊的に完成される母と子との深い関係である。使徒ヨハネは神の子の言葉を聞いて、神殿となるべき自分の霊魂の家に、信仰と愛のうちにその母を引き取ったと見るべきである。
これらのことをふまえて考察すれば聖母を疎外する者、無関心な者は、自分の信仰の家たる心に、彼女を引き取ることがないので、神の言葉に適合してはいない。イエズスが愛する弟子に言った最後の言葉であるだけにきわめて重要である。世界にはキリストを信じる者がたくさんあるけれども、彼の母、聖母をヨハネのように引き取っている者はいまだに少ない。
ヨハネはこのときから聖母を霊的な産みの母として受け取って聖霊の働きに受諾したのである。イエズスが十字架上の上から「見よ!」と呼びかけて、「母がここにいる」と指摘して、神の言葉のうちに、母の生命に生きる子の存在を確立させたのであった。母と子との間の生命のつながりほど親密な関係は他になく、それは神が永遠にわたって結んでくれた生命の秩序であった。十字架のイエズスは、わたしたちにも、彼を産んだ母が、わたしたちの母であることをくしくも認識させる言葉として残して、安心して世を去るのであった。
以上