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「この後(after this)」(ヨハネ19・29)の重要性
数年前のカトリック聖霊による刷新全国大会のフィオ神父の講話で特に印象に残っているのは、聖書の読み方についての説明で、たとえば、次の御言葉の「この後(after this)」はとても重要であると説明してくださいました。
「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」(ヨハネ19・28)。
「この後」という言葉は何の変哲もない言葉ですので、その言葉自体が重要であるというわけではありません。その言葉が示唆していることがとても重要だという意味です。
この(this)は、何を指しているかと言うと、次の御言葉です。
「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です』」(ヨハネ19・26~27)。
ここからは別の司祭から学んだことですが、このとき、十字架刑の現場にいて、聖書に記されているごくわずかの婦人たちの中に、ヨハネの実の母親もいました。
「その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた」(マタイ27・56)。
ゼベダイとはヨハネの父親です。次の御言葉から明白です。
「そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると、彼らをお呼びになった」(マタイ5・21)。
ヨハネには肉親としての母が健在だったので、イエスがヨハネの母の代わりとしてマリアをヨハネに託したと考えることは不可能です。そもそも、もし、イエスが「私の母を頼む!」とマリアをヨハネに個人的に託したのであれば、ヨハネはそんな個人的なことをあえて自分の福音書に記載する必要を感じなかったのではないでしょうか。イエスの言葉はもっと意味深長だったに違いありません。
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ここからは、インド聖書研究所のフィオ神父が共同で著された“THE BIBLE GIVES LIFE!(聖書はいのちを与える!)”の第12章「MARY IN THE BIBLE(聖書の中のマリア)」による説明です。
イエスが十字架上で口にしたことを言うに当たって、イエスは衝動的にではなく、御父の計画を実現するために行動されました。「なぜなら、子は、・・・、自分からは何事もできない(ヨハネ5・19)が、「いつもこの方の御心に適うことを行う」からです(ヨハネ8・29)。イエスが意図されたのは、マリアがこの世で一人ぼっちで無防備でいることのないよう、その必要を満たすことではなく(福音書は、マリアとともに十字架の下に立っていた「姉妹」を含め、親族がいたことを記しています)、ご自分の弟子たちに一人の母を与えることだったのです!「イエスはマリアに人類の世話を特別に任せられることになったのですが、それは、マリアがイエスご自身の母であったことの延長であり反映でもあるのです」とヨハネ・パウロ二世が説明しておられますが、イエスは、まさにこの委託を始められたのです。
聖書は、神のことばには、ご自分が言われたことを実現する偉大な創造力があると教えています。たとえば、イエスが「ラザロ、出て来なさい」と言われたとき、ラザロは死から甦り、出て来ました。イエスが十字架上で「よい泥棒」に「この日、あなたはわたしと一緒に天国にいる」と言われましたが、それが本当に起こったことを疑う人は誰もいません。ですから、イエスが、母とそのそばにいる愛弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われ、それから弟子に「見なさい。あなたの母です」と言われたとき、それがその時以来、本当に起こったことであることを私たちは信じることができます。マリアは霊的にすべてのキリスト者の母となったのです。イエスの創造的な言葉は、その時にその場でマリアを、聖霊の力により、あらゆる時代のご自分の弟子たちの母に任命されました。この新しい霊的な事実は、十字架上のイエスの言葉の直接的な結果として現実のものとなったのです。
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イエスが十字架上での死の直前に、御父の御心にそって、自分の母マリアを自分の弟子たちの霊的な母として残して行かれたことによってすべてが成し遂げられたということ。それが意味するところを全国大会終了後、私はずっと思い巡らしていました。
たとえば、私は聖霊刷新の一員として、救い主イエスとも御父とも親しく交わっているつもりですが、霊的な母マリアとどれだけ親しく交わっているのかと問われると、ロザリオはよく祈っているけれど、正直言って、親しく交わっているわけでもないように感じました。 私は自分が「すれっからし」になり過ぎてしまったとは思いませんが、意識の上で「大人」になり過ぎていたのかもしれません。肉体的には大人でも、霊的にはまだ子供のはずなのに。