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キリスト教についてのユダヤ教の考え方

ユダヤ教は、近代において大きく三つの流れ(正統派、保守派、改革派)が生まれています。20世紀前半の保守派のラビであるミルトン・スタインバーグによる『ユダヤ教の基本』(2012年、ミルトス)によれば、キリスト教についてのユダヤ教の考え方は次のとおりです。

(引用開始)

キリスト教を、明確な新宗教として発展させたのは、主としてパウロである。

イエスの考え方と理想のほとんどとは、ユダヤ教は非常に調和がとれたものだった。これらの考え方と理想がそれで完結していたなら、ほかにどういおうか。反論があったのは、自分がメシアであるといった宣言と、道徳的強調点とその方向の誤差、そして、見た目には甚大だが、ユダヤ教との共通点に比べれば取るに足らないような点だけであった。イエスの名のもとに行なわれた残忍で侮辱的な迫害に苦しんだとき以外は、ユダヤ人たちも、イエスと自分たちのあいだに、教義や目的における大きな共通点があることを理解していたのである。このような穏やかな感情と客観的な態度をもって、彼の時代のキリスト教界がそれに応えなかったにもかかわらず、モーゼス・マイモニデス(注:中世の偉大なユダヤ教学者)はイエスをこう称賛する。「彼はメシアである王のために、道を用意したのだ」と。

ところが、パウロのこととなると話は別である。パウロは、自身が証言しているように「イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人」であったが、彼はむしろギリシア・ローマ世界の産物であった。パウロの中にはギリシア的精神が根づいており、その結果、ユダヤ教とは全く折り合わない見解と価値観とを持つに至っている。しかも使徒行伝が明確に示しているように、パウロの革新の数々は、イエスを最も身近に知っていた使徒たち、特に「主の兄弟」と呼ばれたペテロとヤコブから、猛烈な抵抗を受けたのだ。にもかかわらず、パウロは、キリスト教会を自分の思想に引き入れるのに成功した。以下のようなキリスト教におけるパウロ的要素こそが、ユダヤ教が爾来一貫して反発してきた事柄なのである。
・肉は悪であり、抑圧されるべきだと強く主張したこと。
・原罪(すべての人間は生まれる前から罪を負い、罰を定められている)という概念。
・イエスを人ではなく、神が肉となった人間と解釈していること。
・人間は代理によって救済される。しかも救われるためにはそれしか方法がない。イエスは神がそのひとり子を犠牲にしてくださったものであり、イエスを信じる者が救われる、という信念。
・聖書及び<伝統>の権威を破棄したこと。また、トーラーの戒めを破棄したこと。
・イエスは死人の中からよみがえった後、彼の時が来て人間を裁き神の国を建てるために地上に戻るまで、天国で待っているという信仰。
・そしてこれらを熱心に信じる者は自動的に救われるが、いかに徳のある人であってもそれらを否定する者は、永遠の地獄に落ちるという究極の考え方。

ユダヤ教は、これらの命題とそれらに付随するものを拒絶する。しかしこれらは歴史的キリスト教の横糸と縦糸をなすものであり、これを否定することは事実上、キリスト教の織物全体を否定することに他ならないだ。

パウロの時代に、それもほとんどパウロゆえに、キリスト教とユダヤ教の溝は埋めることの不可能なものとなった。二つの宗教が一度分裂すると、それらはますますお互いに乖離していくことになった。キリスト教神学はますます理論的に込み入ったものになり、三位一体、ミサの奇跡、聖人崇拝、マリアの執り成しの力、そして教皇の無謬性という教義などを主張し、ユダヤ教とは似ても似つかぬくらい離れることになった。

(引用終了)

イスラーム同様、ユダヤ教も三位一体を否定していることがわかります。ユダヤ教神学の礎石は、「神は一つである」ということです。