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コーランを読むとイスラム教徒がキリスト教徒についてどのように考えているかよくわかります。例えば、クリスチャンは地獄に行くと普通のイスラム教徒は考えています。そんなことを面と向かってクリスチャンに言いはしませんが・・・。
コーランの「神の御子の否定」
2章(牝牛)110(116)~
「アッラーは御子をもち給う」などと言うものがある。ああ何というもったいないことだ。天と地の一切のものをもち給う御方ではないか。あらゆるものがアッラーに恭順の意を表しておるではないか。天と地の創造主。何事たりとも意を決め給うとき、ただ「かくあれ」との一言ですべてその通りになるほどのお方ではないか。
コーランの「主イエスの十字架の死の否定」
4章(女)155(156)~
彼ら(投稿者注:ユダヤ人のこと)は信仰に背きマルヤム(聖母マリア)について大変なたわごとを言った。そればかりか「わしらは救世主、神の使徒、マルヤムの子イーサー(イエス)を殺したぞ」などと言う。どうして殺せるものか、どうして十字架に架けられるものか。ただ、そのように見えただけのこと(回教ではイエスが十字架にかけられて死んだことをユダヤ人の虚言として否定する。イエスでなくてイエスに似た男が殺されたにすぎない)。もともと(啓典の民の中で)この点について論争している人々は彼(イエス)について(本当にイエスが殺され十字架にかけられたかどうかについて)疑問を持っている。彼らにそれに関して何もしっかりした知識があるわけでなし、ただいいかげんに臆測しているだけのこと。いや、彼らは断じて彼(イエス)を殺しはしなかった。アッラーが御自分のお傍に引き上げ給うたのじゃ。アッラーは無限の能力と智恵をもち給う。
コーランの「三位一体の神の否定」
4章(女)169(171)~
これ啓典の民よ(ここではキリスト教徒への喚び掛け)、汝ら、宗教上のことで度を過し(三位一体やキリストの神性の教義などを指す)てはならぬぞ。アッラーに関しては真理ならぬことを一ことも言うてはならぬぞ。よくきけ、救主イーサー(投稿者注:イエスのこと)、マルヤム(投稿者注:聖母マリアのこと)の息子はただのアッラーの使徒にすぎぬ。また(アッラー)がマルヤムに託された御言葉(「ロゴス」の直訳)であり、(アッラー)から発した霊力にすぎぬ(神でもないし、「神の独り子」でもない)。されば汝ら、アッラーとその(遣わし給うた)使徒たちを信ぜよ(特にキリストだけを有難がるな、という意味)。決して「三」などと言うてはならぬぞ(三位一体の否定)。差し控えよ。その方が身のためにもなる。アッラーはただ独りの神にましますぞ。ああ勿体ない。神に息子があるとは何事ぞ。天にあるもの地にあるものすべてを所有し給うお方ではないか。保護者はアッラー独りで沢山ではないか。
コーランの「キリスト者との関係」
5章(食卓)56(51)
これ、汝ら、信徒の者、ユダヤ人やキリスト教徒を仲間にするでないぞ。彼らはお互い同士だけが親しい仲間。汝らの中で彼らと仲よくするものがあれば、その者もやはり彼らの一味。悪いことばかりしているあの徒をアッラーが導いたりし給うものか。
コーラン「イエスを救い主と信じる者は地獄へ行く」
5章(食卓)76(72)
「神はすなわちマルヤム(マリア)の子救主である」などと言う者は無信の徒。メシアが自ら断言しておられるではないか、「これイスラエルの子ら、我が主にして汝らの主なるアッラーに仕えまつれ。まことに、アッラーとならべて他の何者でも崇めるような者には、アッラーが楽園を禁断の地となし給う。落ち行く先は(地獄の)劫火。不義なす者どもには助け手もあるまいぞ」と。
77(73)~
「まことに、神こそは三の第三」(三位一体の中の一つということ)などと言う者は無信の徒。神というからにはただ独りの神しかありはせぬはず。あのようなことを言うのを止めないと、無信も徒は、やがて苦しい天罰を蒙ろうぞ。彼ら、早くアッラーの方に向きなおって(改悛して)お赦しを請えばいいのに。アッラーは何でもすぐお赦しになる情深いお方なのに。
79(75)
マルヤムの子救主はただの使徒に過ぎぬ(キリストの神性の否定)。彼以前にも使徒は何人も出た。また彼の母親もただの正直な女であったに過ぎぬ。二人ともものを食う(普通の人間)であった。見よ(マホメットにたいする喚びかけ)、こうして色々と神兆を説明してやっても、よく見るがよい、彼らはああして背いて行く。
コーランの殺人についての教え
2章(牝牛)173(178)~
これ、信徒のものよ、殺人の場合には返報法(いわゆる「目には目、歯には歯」を))が規定であるぞ。つまり自由人には自由人、奴隷には奴隷、女には女(つまり一人に対して同格のもの一人の復讐である。一人殺されたのに、その復習として相手側の人々をむやみに何人も殺すというイスラム以前のならわしはもはや許されない)。・・・
2章(牝牛)186(190)~
汝らに戦いを挑む者があれば、アッラーの道において(「聖戦」すなわち宗教のための戦いの道において)堂々とこれを迎え撃つがよい。だがこちらから不義をし掛けてはならぬぞ。・・・・向こうからお前たちにしかけて来た時は、構わんから殺してしまえ。信仰なき者どもにはそれが相応の報いというもの。
4章(女)94(92)
信徒が信徒を殺すことは絶対に許されぬ、誤ってした場合は別として。もし誰か信徒を誤って殺した場合には、(その罪ほろぼしに)信仰深い奴隷を一人解放してやること。・・・
引用文献:『コーラン』(上、中、下)井筒俊彦訳 岩波文庫